「ジャミル、」
得体のしれない何かに向かって、呟く。
寮生やアズール達や監督生。全員にユニーク魔法をかけていたと白状したジャミルの背後に迫りくるのは、鎖で雁字搦めになっている黒い巨人だ。ジャミルはずっと、笑ってる。笑ったままのジャミルと俺達の間には、黒い壁。よく見ると、蛇のような生き物がおびただしい数が張っている。
監督生が真っ青になって、口元を抑えて膝を折る。それを、グリムと、フロイドとジェイドが支える。
見えない。ジャミルのことが見えない。黒い巨人に飲み込まれてしまう!届くと願って手を伸ばすと、アズールに腕を力強く引かれた。
「ジャミ、」
「いけません、カリムさん!」
オクタヴィネルの三人が掌を翳すと自分たちを守るように無属性魔法特有の防衛が張られた。幾多の黒蛇が飛び跳ねて、防衛魔法のエリアに当てられ消え散る。少しクリアになった目の前の視界には、俯いて、横に揺れながら、笑っているジャミルが其処に、居る。
黒い巨人が呻き声をあげて鎖を引きちぎった。すると、防衛魔法では補えないほどの炎、水、木、全ての要素が合わさったような、生ぬるい風が一気に吹き込んでくる。
「まずいですね」
「ほんと信じらんね~」
「このままだと持たないかもしれません」
「アイツ、おっかねえんだゾ…」
「ジャミル先輩…」
いつまで防衛魔法が持ちこたえられるのかわからない。カリムは寮長である証の杖を翳して、防衛魔法に隙間を作り、するりと抜け出す。
「カリムさん!」
危険です、戻りなさい、と、声をかけてくれるアズールは、自分と違って本当強くて頼もしい、寮長だと思う。だから、皆慕うのだ。黒い巨人が手を広げて、出来た黒い空洞に、ジャミルを招き入れようとしてる。
ジャミルの身体を黒蛇が這う。
少しでも気を引けることができるなら、そこへ飛び込んでいける。
「ジャミル!」
「五月蠅い!」
予想通り、俺の声に反応した黒蛇たちがこちらへと向かってくる。ジャミルの標的は最初から俺だったという証明だ。受け入れるようにこちらも両手を広げて待っていると、黒蛇たちが導くように巻き付いてくる。少し呼吸は苦しいが、ジャミルを助けるためにはこれしかない。
「-ッ!」
身体が少し浮いたと思ったら、一気に巨人側へと引っ張られる。気を失ってしまうほどの強さだ。
ブラックホールの中にはいったい何があるんだろう。教えてくれ、ジャミル。
叫ぶ監督生たちを置き去りにして、心の中でそう、呟いた。
井戸の底、鯨の胃の中。
行ったことはないけれど、例えるならば、それらに近いと思う。静かで、暗くて、時折寒い。さっきまでの喧騒が嘘だったように、静寂に包まれた空間。目を覚まして起き上がると、確かな傷みを感じる。黒の蛇たちに締め上げられていたときの跡だ。暗くてよくは見えないが、手首を摩ると、鬱血したのか肌触りに違和感がある。身体全体にその痕が残っているだろうとは思うが、いまはそんなことを気にしている場合じゃない。
ゆるりと立ち上がって周りを見渡す。灯りすらない。出口があるかどうかすら分からない。けれど、決して1人でこの空間から抜け出しては駄目だと本能に刻まれている。
俺の目的、標的は。
しばらく歩いていると気配を感じた。誰かなんて、よく分かっている。目を凝らしていると目線の先に蹲っている人影が見えた。
「ジャミル!」
駆け寄ると、反応した人影が顔を上げた。
それは、よく知る、とても幼い姿。
カリムは絶句した。探していた親友だ。それは間違いない。でも、
「だれだ」
記憶の中にある、幼い声。幼き日のジャミルは目元を腫らしてこちらを睨んだ。小さな身体を取り囲む蛇も一斉に牙を向けた。
「カリムか」
悍しい嫌悪を感じるが、一歩進むたびに、黒蛇が舌を伸ばし、牙を剥き、近づくなと警告を促す。
「これいじょうちかよるな。くるな。おれはおまえのせいで、さんざんなんだ。いつも、おまえがきらいだった。なんにもできないくせに、へらへらわらって。のうりょくもないくせに、りょうせいにしたわれて、りょうちょうになれたのはおまえのちからじゃない。むのうな主人はいらない。なのに、まわりの大人たちはお前にこびへつらって。もううんざりなんだよ。母さんに叱られるのもいつも俺だけだ。俺は1人で努力した。お前より勉強も運動もできる、ダンスだってマンカラだって負けない。それがどうして駄目なんだ?俺たちは友達だろう。いつも俺に頼ってばかりのお前に、なんで譲らなきゃならないんだ?お前はたくさんの大人に守られてる。
どうして、どうして誰も、」
俺を助けてくれないんだ?
「ジャミ、ル…!あ、ッ…!」
ジャミルの涙を纏った無数の黒蛇は、カリムの手足と喉に食らいつく。あまりの強さに、顔が歪む。だが、振り解く暇があるなら、一歩を確実に進めたほうがいい。カリムは呼吸を整えながら、前に進む。ジャミルの背後から突風が吹き荒れて、黒の艶髪が成長する。幼少期から現在の背丈になって姿を現したジャミルの瞳からは、黒い涙が流れている。
カリムはぐっと唇を噛み締めた。
「…今まで気づけなくてごめん」
辛いのは、ジャミルのほうなのに、言いながら涙を流す。アズールがいたらこれを「無自覚の傲慢」と呼ぶのだろう。泣いては駄目だと、手の甲で乱暴に拭う。
いつものジャミルなら、化粧が寄れる、なんて言って困った顔をして直してくれるんだ。お前はそういう奴なんだよ、ジャミル。お前にどれほど助けられてきたか。それは事実なんだ。
「五月蝿い、嫌だ、消えてくれ、虫唾が走る」
一瞬目を見開いたジャミルは、苦しそうに顔を掌で覆い隠した。両手を伸ばす。あともう少しだ。蛇に噛みつかれた。あちこち血が流れてる。でも痛みは感じない。
「悪いな、今は死ねないんだ」
お前を助けるまでは絶対に。
ふと、笑みが溢れた。
腕も足も使い物にならないほど血が流れていたって、「殴ってやればいい」と言われた拳を開く。このボロボロな両手は、小さかったあの頃も今までのジャミルも、全てを抱きとめることができるはずだから。頼りないかもしれないけれど、受け止めることはできる。
目前まで迫ったジャミルの身体を捕まえる。
「俺を信じて、ジャミル。必ずお前を助けてやるから」
背中に両手を廻し抱きしめると、黒蛇たちはカリムの身体を牙で抉り続けた。
「やめろ、やめてくれ、俺はもう何もかもどうでも良いんだ、この先は地獄だ、なんにもないんだ、俺は」
怯えた声に混じるのは涙だ。蛇たちもきっと泣いている。震える背中を蛇ごと、掌で包み込む。
「みんなお前を待ってる。…帰ってきてくれ、ジャミル」
唯一の願いは、俺の元へ、さあ。
***
「どうなることかと思い、ました、カリム先輩たち、帰ってこなかったら、どうしよ、って、」
「おまえ、鼻水も出て…あーっ!放すんだゾー!鼻水がー!」
えぐっ、とぐしゃぐしゃの顔をした監督生はげっそりした顔のグリムを抱きしめる。カリムはゆっくりと起き上がると、目尻を下げて、俯く監督生に微笑んだ。
「ごめんなあ。巻き込んじまって…」
「う、うっ、ごわがっだ…!」
「よしよし、怖かったよな、心配かけたな。でも俺は見ての通り!もう大丈夫だ!」
ぐすぐず泣く監督生の頭を撫でて、歯を見せて明るく笑うカリムに、ジェイドとフロイドはお互いの顔を見合わせた。
「あんな血だらけで、な〜に言ってんの?ラッコちゃん」
フロイドはカリムの頬をつん、と指で突いた。
「いくら回復魔法が間に合ったからと言っても、危険な状態だったんですよ」
ジェイドは少し屈んで寝床のカリムと目線を合わせた。
黒の巨人から放たれる攻撃を避けることで精一杯だった最中、突然巨人は呻き声を上げて攻撃をやめた。目の前に再びブラックホールが現れ、抱き合った状態のジャミルとカリムが吐き出された。カリムの身体だけは黒い血に覆われているようだった。2人とも意識はない。
巨人は頭を抱え、暴れる。チャンスですね、と呟き杖を構えたアズールに続き、フロイドとジェイドがマジカルペンを翳す。
3人全ての魔法が合わさった時、監督生はグリムを庇い、目を瞑った。強力な、圧倒的な魔法が放たれて、黒の巨人は消滅した。
「…みんなに迷惑かけたな。本当にごめんな…助けてくれて、ありがとう…」
カリムは目尻から涙が溢れそうなのをぐっと耐える。
最悪の場合だってあったのだ。こちらが負けて、ジャミルだけが生き残った世界。たったひとりで終わらぬ宴を。ジャミルがひとりぼっちになる。それならば、と、飛び込んだのらカリムの揺るがない意志だった。
アズールは、呆れたようにため息を吐いた。
「本当に良い迷惑です。この報酬は高くつきますよ」
防衛魔法を破ってまでも、裏切り者の元へ駆け寄った主人を哀れむ。自分がどうなるかも分からずに。
「ああ、好きな額を言ってくれ!」
カリムの言葉に、ジェイドとフロイドはゲッと顔をしかめる。はあー、と大きなため息をつくのはアズール。
「そういう所なんですよ、カリムさん…。請求先は、ジャミルさんにしますね」
「なんでだ!?」
本当に分からないといった顔をして驚くカリムを他所に、アズールは空中に浮き出た契約書とペンを持ちすらすらと書き始める。
「…あんなことされたけど、ほんのすこし、ジャミル先輩に同情します…」
「お前、もう放すんだゾ…」
しおしお顔のグリムの肉球で目元を冷やしながら、監督生は涙を止めた。
空から井戸の奥底まで届く、陽射し。鯨が口を開いて、潮の流れと共に流れ込んでくる小さな稚魚。
例えるならそれに近い。
来るなと叫んでみても、それは近づいてきて、まるごと、優しく包み込まれる。
ずっと、帰りたかったのかもしれないそれに、安堵して瞳を閉じた。銀白に、柔らかく細めたルビーのような紅。何十年として見てきたそれに、自然と涙が流れた。はっとして目元を擦る。起き上がろうと目線を動かすと、掌に温もりを感じた。
辺りを一層すると、にやりと唇を三日月の形にして笑う陸の人魚。
「おはようございます、ジャミルさん」
お加減いかがですか、なんて、続く言葉に手をぎゅっと握りしめる。ぴくりと反応を示したカリムは、目を覚さない。おやおや、とアズールは続ける。
「カリムさん、しばらく付きっきりでしたからね。あなたが目を覚さないと知ってから」
「…どのくらいだ」
「2日間、眠り続けてましたよ。僕と同じようにね」
同窓だと言いたいのだろう、あの瞬間を思い出す。
計画が失敗してからなにもかもがどうでもよくなって全てを手放した。快感だった。得体の知れない何かに身を預け、考えることを放棄し、闇の中で泣き続けることを選ぶ。全てを拒絶する瞬間は嬉しかった、けれど。
そこは酷く、寂しかった。
「ジャミル…」
掌の温もりは、俺を呼び戻した。地獄の底から、外の世界へ。
「本当に、お前は馬鹿だな」
死ぬかもしれなかったんだ、と自覚したら背筋が凍る。しゃがみこみ、寝床に上半身を突っ伏したふわりとした銀白の髪を撫でると、眠りこける頬に痛々しい傷跡が残っているのが見えた。それに、涙の跡だって。裏切り者は見捨てればよかったのに。
こいつにはそれが、できない。
「馬鹿同士、お似合いじゃないですか?」
「そう思うなら、出て行ってくれないか?邪魔をするな。報酬の話はその後だ」
「…まったく、あなたみたいな裏切り者を好きだなんて、神経疑いますよ」
ジャミルはカリムの頭から耳に触れ、肩に触れ、輪郭を確かめるように掌を這わせる。その滑らかな手つきがそろそろ唇へと変わりそうだと思い、アズールは、契約書をサイドテーブルに置く。
「必ず、報酬は頂きますからね」
パタン、と扉が閉じられた。
腕から手首にかけて、鬱血した跡は締め付けられた証拠で、頬と背中と首筋に残るのは噛み跡。自身の感情が制御できなかった事実を突きつけられる。愛しむように手を這わせていると、ぴくんと頬が動き、瞳が開かれた。ぼろぼろと流れ始めた涙を舌で掬う。
そのまま薄い唇に、重ねるそれは、一体どんな温度だったのか。
「ジャミル、生きてて、よかった」
暖かな陽射しを浴びたオアシスの水に似た体温を、抱きしめた。