ネテモサメテモ。

同人置き場

Timeless(後編)

***

Jーside

***

卒業式典まであと1か月も切ったころの話だ。

『明日、実家に戻ることになったんだ』
こいつに振り回されることなんて慣れている。突拍子もないことを言われようとも、対応できるだけの能力が自分にはあると思っていた。

『連絡が来たんだ。…とーちゃんの体調が優れないって』
『俺は聞いてない』
『だから、オレだけ先に帰るんだ』
『は?』
あれだけ、学友たちと共に卒業することを喜んでいたはずなのに。採寸された式典服を嬉しそうに着ていたのは誰だ。主人であるこいつが先にアジーム家に戻ることもあり得ないのに。

『…父さんからも連絡は来ていない。…お前、何か隠してないか?』
ジャミル…悪い、今は…バイパーもお前にも、他の従者たちにも言えないことなんだ』
生まれてからずっと従者として生きて、アジームに関することにも俺が知らないことがひとつでもあるかもしれないってだけで焦りと苛立ちを覚えた。

『……関係ないってことか?』
『違う、巻き込みたくないんだ』
次期当主であるこいつがNRC在学中に、現当主様が病に伏せてから不穏な空気が漂い始めていたのは感じていた。暗殺を企てるような輩に狙われる一族のことだ。きな臭い噂は尽きない。

『卒業式典はどうするつもりだ』
『残念だけど…オレは出ないよ。だから明日の朝に、無理を言って学園長室で証書だけ貰うことにした。それと、ジャミル…』

『お前はもう、自由だ』

俺は憤りを隠せずに、顔を伏せるあいつの胸倉を思わず掴んだ。


ジャミル…』
『今、俺が、ここで…』
ユニーク魔法でも使えば、これじゃいつかのホリデーと同じだ。

『ごめんな、ジャミル。でもこれはアジームのことだから』


この真っすぐな紅い瞳が心底嫌いで、忘れてしまいたくなった。


***


幽霊生徒と噂されるカリム・アルアジームに出会ってからよく見る夢がある。名前も顔も鮮明ではないけれど、傍にいないと落ち着かない、存在。危なっかしくて、ほっておけなくて、目を離すとすぐにでも死んでしまっていただろうとまで思わせるようなその相手は、いつも俺を翻弄する。所詮は夢の中の話なのに。

窓から見える今日の曇り空のように、ここ最近、胸の内も晴れない。

「バイパーくん」
向かいに座る女生徒にはっと向き直す。ここは学園近くの喫茶店だ。

「私、バイパーくんのことが好きなの」
目の前にあるアイスティーの入ったグラスの中で氷がひとつ、音を立てて溶けた。頬を赤らめた女子生徒と目が合う。
同学年である彼女には、部活動のマネージャーとして世話にはなっていた。今回も、来る練習試合の打ち合わせがしたいからと、学園近くの喫茶店に来ていた。
なかなか話が始まらないなと思っていたら、結局言いたかったのは部活の話でもなんでもなかったわけだ。

「君のこと、正直よく知らないし…」
「これから知ってくれればいいの」
「……」
少々強引に身を乗り出して、上目遣いで見つめて来られる。その目と無意識に何かと比べて、違う、と思ってしまった。

「悪いけど、今日は打ち合わせに来たつもりなんだ。それに君と付き合う気はないから、知る必要もない」
「ッ……!」
がたんっと席から立ち上がり、女子生徒は鞄を両手に抱えてあっという間に店の出口へ向かった。途中、店員とぶつかったようだがお構いなしだ。
女子生徒が注文したアイスティーは一度も口を付けられてない。かと言って自分が飲み干す義理もないだろうと、自分が注文したアイスコーヒーだけを飲む。
外を見ると小雨が降り始めていた。喫茶店で時間を潰すにはちょうど良い。
鞄から生徒会長候補用の演説資料を取り出す。こっちだって暇じゃない。やっぱり今は誰と付き合うとか、そういうのは煩わしく思えてしまう。

「おまたせしました~」
「え?」
女子生徒とぶつかったはずの店員がテーブルにやってきた。何かを注文した覚えはない。

「違いますよ」
背の高い店員を見上げて言うと、店員はにやりと口角を上げる。

「こちら、カップルでご来店の方へのサービスになりま~すって、女の子帰っちゃったけど」
腑抜けた口調で、コースターを敷き、グラスを置く。ハートの形に曲がったストローが差されて、げっ、と顔を顰めてしまった。
年若い男女がそこに居るだけで、カップル扱いだ。

「必要ないんで、下げてください」
「ま~、そう言わずに?これにはタネも仕掛けもあるんで~す」
「はあ?」
なんなんだ、と思っていると、店員はストローで中を徐にかき混ぜる。すると、無色の炭酸水から色が徐々に赤く染まっていった。
混ぜ終わると、最後には完全に赤一色になった。

「当店自慢の、ざくろジュースでぇす」
さっきからのらりくらりと喋るこの店員。どこかで見かけた顔に似ている。ただでさえ、思い出さなきゃいけないことがあるっていうのに、こいつのことまで思い出さないといけない何かでもあるんだろうか。

「頼んでない、下げてくれ」
「ふぅん。

ウミヘビくん、つまんねえ」

知ったような声で呟かれた店員の言葉に苛立つ。

「なんなんだ、アンタ」
「美味しいのに、ざくろ

店員は目尻を下げて、にこにこと笑ってみせた。

「これが欲しいって、顔してるくせに」

炭酸の泡が、グラスの中で弾ける。
喉が渇いて仕方がない。サービスというジュースには手をつけずに、アイスコーヒーを飲み干した。
ウツボの双子の片割れがおおっ、と声を上げる。

「俺が欲しいものは、こんなものじゃない」

口元を拭って、勢いよく席を立つとテーブルに代金を置いてすぐに店を出た。


***


あの色はよく知っている。毎日ターバンを巻いて、宝石の乗った装飾をつけてやって、最後の仕上げにアイラインを引く。
ぱちりと目を開くと、そこには高貴な色と光が宿る。その瞬間が何よりも好きだった。
卒業式典当日まで、式典服の採寸をして取り寄せたメイク道具でアジームの名に恥じないようと、どう仕上げるか考えていた。
そんな時間が悪くないと今なら思えるほどだったのに。

ある朝に、学友誰一人にも告げずにあいつは学園から姿を消した。

『クソッ…!』
見張っているつもりが、昨晩に飲んだハーブティーに睡眠系の魔法薬を仕込まれていたらしい。気づけば部屋はもぬけの殻だった。
魔法薬学の課題が分からないといつも泣きついてきていたくせに、あいつが調合できる魔法薬の種類は各段に増えていた。

『一体何が起きてるんだ、父さん』
『私もよく分かっていないんだ。アジーム邸には従者家系も使用人も、血族者以外は立ち入れないようになっている。…私たちも今は家に帰って来ているんだ』
在学中に旦那様が激務による過労で床に臥せていた知らせは受けていた。連絡を受けたその日のうちにあいつと共に一時期的に熱砂の国に帰り、この目で旦那様の姿も確認した。随分と痩せこけていて、息をするのも難しそうだった。

それから回復したと聞いたはずだが、やはり無理が祟ったのかもしれない。
誰よりもあいつの成長を楽しみしている御人が、名門校の卒業式典を目前にした愛息子に対して帰省を急かせるなんて考えにくい。

―だったらあいつの独断か。

卒業式典が終わって、式典服のまま真っ先に鏡へ飛び込む。
本来ならば、学友たちと最後の別れを名残惜しむぐらいの時間が欲しかった。でも今は着替える時間すらいらないと思えるほど、早く、早くと、鏡を潜って熱砂に降り立つ。
ジーム邸に着いたころには夜も更けていた。実家に寄らずに、ここに真っ先に来るなんて何をしているんだろうと自分でも思う。
大きな門構えが見える入口に行くと、警備や護衛人の姿は見えない。入り口の噴水もライトアップされて観光名所になるほどだったのに、しんと静まり返っている。異様な光景だ。
立ち入れないようになっていると言っても、人気がないせいか、正門まではあっさりと侵入できた。

ーどういうことだ?誰もいないのか?

さすがに鍵を開けていることはない。万全のセキュリティで守られているはずだ。ならばどこから侵入すべきか。
旦那様がいる離れの棟はバルコニーを開放している。そこからなら侵入できる可能はある。
マジカルペンを翳し、少し念じると箒が出現した。即座に跨り、一時的に空中に浮かべる魔法を施した。
空から見るアジーム邸は、どの棟の窓からも、光が見えない。使用人の誰もいないじゃないかと思うほど、暗闇に包まれて見えた。
なんとか目を凝らし、離れのバルコニーを見つけて降り立つと、すぐさま箒を消滅させて魔法の気配ごと消す。
今下手に見つかってしまっては厄介かもしれない。
息を潜めて真っ暗な部屋の中へと入る。元々窓はないため、セーフティーになるような魔法が施されているはずが足を踏み入れてもなんの音沙汰もなかった。念のために身も屈めて進んであいつの自室の方向へと向かう。
大理石の廊下に出ると、数メートル間隔で照明は仄かに灯っていた。

『誰かいないのか?!』
思い切って叫んでみるが、反応は見えない。辺りを見回すと、中庭を挟んで向こうの側の棟のバルコニーに人影が見えた。
棟は渡り廊下で繋がっている。全速力で走っていくと、人影が鮮明に見えてきた。

ジャミル…!?あっ…』
『!』
右腕を庇うように歩いて居たあいつが躓きそうになり、咄嗟に手で支える。掌に、ぬるりとした何かが触れる。
白い反物から赤い血が滲み出ていることに気付いた。

『誰にやられた』
『ッ…これは…』
殺気立つ声を抑えきれずに、歩くのもままならない様子の身体を抱き留める。

ジャミル、なんで…バイパーも全員解雇したはず…』
『…そんなことは聞いてない。何があった』
『……だめだ。今すぐここから出たほうが良い…アジームはもう、駄目なんだ』
ジャミル、と縋るように見上げてくるガーネットの瞳。

『とーちゃん、しんじゃったんだ。…随分前に…。だから、オレがすぐに当主にならなきゃいけなくて、卒業式典の前に学園を出ることになって…』
ぽろぽろと涙を溢しながら、俺の袖を震える手で掴む。

『…旦那様は、本当に過労が原因だったのか?』
『それも、理由のひとつなんだけど…とーちゃんに…長年仕えてた護衛人が…いただろ』
『ああ。従者家系から成り上がった人だろ。武闘にも精通してる』
『その人が、とーちゃんに毒を盛ってたんだ。…ずっと…何年も』
『は…?』
『それが身体の中で蓄積されて、とーちゃんは倒れたんだ。…それでさ、遺言があって…もし、当主を交代する時には一度、従者家系も使用人も全員を解雇しろって。それは、皆を…護るためにも必要だって』

旦那様はこいつに似て、人を疑うことをしたくないタイプの御人だ。特に身内相手には甘いところもある。一度懐に入れた人間は、アジームの中で一生護られ、生きていく。そんな旦那様を慕う人間は多い。

もし、護衛人が刺客まがいのことをしていたとしたら、相当なショックを受けただろう。次期当主であるこいつの今後のことも考えて、一度、主従関係をリセットすることを望んだ。そうすれば誰も疑わなくて済むから?

『でも、さ、中には、納得がいかないって、思ってる、奴らが…いて』
『…無理して話さなくてもいい。回復魔法をかけるから…』
『うん、ごめん、ごめんな…』
式典服の袖を破り、腹部に宛がう。止血をしてから回復魔法を施した。単なる一時的な効果しかない。
医療機器の揃う邸宅内の医務室に向かう必要があった。
細い腕を肩に掛けさせて立ち上がると、ずるずると、歩き始める。

ジームがタダで使用人を解雇するなんて考えにくい。一生暮らせるほどの額をそれぞれの家系に渡しているはずだが、金に目が眩む奴らはどこにでも潜んでいる。そんなものじゃ足りない、と。

『オレが当主になると、困る、奴らが…』
『…兄弟の親戚筋か?』
『それだけじゃ、ないと思うぜ…とーちゃんのやり方が気に入らないって思われても、おかしく、ない…。オレ、いろいろ考えていたんだ。一度解雇した従者家系や使用人たちをどうやったら呼び戻せるか。どうすれば、きょうだいを護れるか…でも、そんなに…考える時間がなくって…』

邸宅のこの静けさはこいつが、意図的にやっていたことだ。兄弟やそれに近しい家系を真っ先に邸宅から遠ざけ、旦那様の執務室で次期当主として考えを練るために。
そんな絶好の機会、刺客まがいのことを仕出かす人間が逃すはずはないのに。こいつはだれにも頼らずにそれらに立ち向かおうとしていた。
一番近くにいたはずの俺にさえ、頼ることをせずに。

『旦那様もお前も、俺を信用していないことは分かってる…だから1人で考えようとしたんだろ』
『あのことは、とーちゃんだって咎めようとしなかった。どうしてか、分かるだろ、』

『アジームで、ジャミルの世話になってない奴なんていないんだよ』

幼少期に、学校で流行っていたファーストフードがあった。しっとりと濡れたパンズが美味くて、自分でも作れるんじゃないかと、厨房に立った。
試しに作っているとその匂いに誘われて従者仲間や幼き日のこいつがやってきて、口々に美味い美味いと、すべて平らげたことがあった。
それがいつしか旦那様や奥様の耳にも入り、庶民向けの料理を振舞うことになった。
『あら、美味しい』
『美味いな!これが下町で流行っているのかい?』
ジャミルはなんでもできてすごいな!』
『いえいえ、滅相もございません…』

あの時の父さんの顔は少し引きつっていて、それが少し面白くて、妹と二人で笑ってしまった。

『とーちゃんは、ジャミルのこと大事に想ってくれてる。お前は、違うって言うだろうけど、…ジャミルはオレの…大切な友達、だから…』

大粒の涙の雫がぼとりと落ちる。
それがこの世で一番綺麗で嫌いだと思う程度には、俺も冷静を保てずにいた。

『……カ、』

抱え直して、こいつを医務室に運んで、手当して、もう一度、一緒に生きてみても悪くないと覚悟を決めた矢先だった。

『さようなら、次期当主殿』

執拗に狙っていた刺客は、解雇された元従者家系の人間だった。
その気配に気付けず、回復魔法を施したばかりの腹部が勢いよくナイフで貫かれる。

『……あ……』

口唇から血が溢れ出た。白い反物はいよいよ真っ赤に染まってしまった。

『―――――!』

この瞬間愛おしいとさえ思っていた名前を大声で叫んだ。そのあとのことはあまりよく覚えてない。


***


「私はサスティナブル月間の提案をしようと思ってます。昨今、環境問題は深刻化しています。我が学園も今後の社会を担う人間の1人として生徒の自覚と自主性を示すために、例えば不要になった衣類の切れ端を利用して来る文化祭や学園行事の出し物の材料として再利用をしたりなど、再利用や加工に関して地元企業の応援が必要な場合は生徒会が積極的に主導し、生徒、教師、企業の橋渡しを担い、生徒全員が環境問題に取り組めるような体制作りを強化していきたいです。これで、私の演説は以上になります」

用意してあった原稿を読み切り、軽く礼をすると拍手が聞こえる。
ここ数週間、次期生徒会長選挙に向けて準備をしていた。テストや部活の練習試合と重なり忙しない日々に加えて、見たくもないような夢を見ていたせいで、瞼は重い。
それでも、ライトアップされた舞台の上で全校生徒の顔が見える。そこで無意識に誰かを探すように見回す。

パチパチと皆が手を合わせている中で、ひときわ目立つのは白銀の毛髪に、大きな紅い瞳…小柄なくせによく目立つ。

「ッ……」
目が合あった気がする。微笑まれたような気がする。
ふいに視線を外し、舞台袖へと戻った。

教師には期待されていると言われた。部活での活動も評価されいてる。もう直に部長にもなれるだろうと。クラスメイトとの関係も良好。順風満帆な学園生活だ。
実力を誰にも邪魔されることなく発揮できるし、家族にだって誇らしく思われている。
何も不自由がないはずなのに、心の中はすっきりとしない。まだ見ぬ光を求めているようで、釈然としない。
喉がカラカラだ。唇も乾燥している。
袖に用意してあったペットボトルの水を飲み干す。冷水が体を潤す。人間にとって水は必要だ。それがなければ生きていけない。
そんな存在が、かつて俺にもあった。

「…あ…?」
目尻から、熱いものが零れた。指で触ると冷水とは真逆に火照った頬を涙が伝い落ちる。いくら疲れているからと言って、こんなに柔な体になったつもりはない。

「うそ、だろ…」
とめどなく涙が溢れてくる。
あの時も、確かにこのくらいの、涙を流しながら誰かの名を呼んでいた。

「カリム……」

ふいをついて出た言葉は、水飲み場で出会ったあいつの名前だ。
もやもやとした気持ちが収まらず、原稿を乱雑に丸めて、ポケットに乱暴に突っ込んだ。


***

K-side

***

ジャミル・バイパー』
候補者の名前の欄に、大きな丸印を書いて投票箱へと入れる。
ジャミルは学園内の人気者だ。きっと大勢がジャミルに投票して、次期生徒会長となるだろう。
本当は傍で親友として応援できればよかったけど、そうなるとオレはジャミルにとって邪魔にしかならない。

前世で散々、痛感したことだ。
どこまで行っても主従関係しか築けなかったオレは、それにふさわしい結末を迎えた。
ジャミルやアジーム、バイパー家のその後はアズール達に教えられた。
ジームはすぐ下の弟が継ぐこととなり、きょうだいたちの大勢の子孫が後世に残った。皆でアジームを再建し、バイパー含む従者家系も全員が出戻った。その後は主に熱砂の観光事業を担うこととなり、前世のアジーム家は立派な観光名所となっていったらしい。

再びアジームに生まれ変わった時に、とーちゃんにも、涙ながらに前世のことを伝えられた。
オレは前世の人生を後悔していない。いつかはなくなる命だと知って、日々を生きて来た。
でもオレにアジームをまとめるだけの力がなく、とーちゃんが築き上げた歴史を引き継ぐことはできなかった。
ジャミルには迷惑をたくさんかけたであろうということは想像できる。だからこそ、もしジャミルと出会う日が来るなら次こそはジャミルに迷惑をかけないように、オレなんて、最初からジャミルの傍にはいなかったように生きていきたいと思った。
NRCにいた頃みたいにジャミルがオレに遠慮して我慢するようなことがあってはならない。

地面にぽたりと落ちる血と汗を見る。前世の記憶とよく似ている。でも致命傷じゃないし、死ぬほどのことでもない。

「あー ほんとムカつくわ、お前」

生徒会長候補演説が終わって、下校する時間だった。
寄り道するところなんてないオレは、一直線に帰るつもりだったのに裏庭で足を止められた。
顔はやめてくれって何度言っても、相手は聞きやしない。頬を思い切り殴られた。今日も幽霊生徒のオレは目の前にいる数人の生徒たちの反感を買っていたらしい。胸倉を掴まれて、地面に突き飛ばされる。ここが裏庭でよかった。この間の、コンクリートの地面はさすがに痛かったな。

「いいよなあ、坊ちゃんは。その日の気分で登校かよ」
「しかもお付連れでな」
「テストも免除だろ?」
自慢できるほど成績はよくないし、アズールに教えてもらってやっと平均点に届くくらいだ。テストは個別で受けているし、オレが登校を渋る理由はとーちゃんもジェイドもよく分かっている。それを言ったところで、暴力が収まるわけでもない。
好き勝手言い放って、満足したのか踵を返す背中を見てオレはのろのろと立ち上がる。

「なあ、お前達」

ぴくりと、反応した背中が歩を止める。

「オレ、学校を退学しようと思ってるんだ。だから、もう、安心してくれ」

ジャミルにも、お前達の目にも触れないように生きていくにはどうすればいいのかずっと考えていた。とーちゃんにはまだ言えてないけど、退学したら実家に戻って新しい学校を探すつもりだ。
殴られたり嫌われることには慣れている。ただ、オレの傷ついた頬を苦々しい顔で見つめるジェイドや、仕事でもないのに学園の様子を逐一報告していくれるアズール、いつも心配してくれているとーちゃんに、これ以上オレにとっての家族たちに迷惑をかけたくない。
この世界は魔法も何も使えない。傷口も簡単には治せないんだ。
ガタイの良い1人の生徒が、大股でオレの方へと近づく。また殴られるなあ、と目を瞑って歯を食いしばる。
振り上げられた拳が頬に再び落ちてきそうな時、後ろにあるフェンスが大きな音を立てた。

「なんだ!?」
生徒たちがざわつく。ゆっくり目を開けると、バスケットボールを片手に持った人物にぎょっとする。

「悪い。手が滑ったみたいだ」
さっきの派手な音の正体は、フェンスに向かって飛んできたボールだ。横目でちらりと見るとフェンスは少し凹んでいる。
制服姿のジャミルは、ボールを一度バウンドさせる。その表情にぞくりとしてオレは慌てて口を開く。

ジャミル、大丈夫だから!あの、オレ、何もされてな、」
「今なら」
数人の生徒を、切れ長のチャコールグレーの瞳がじろりと睨む。

「俺の権限で、教師にも黙っててやれる。…どういう意味か分かったなら、これ以上こいつに近づくな」
「…チッ」
さすがの生徒達も、ジャミルの顔はよく知っているようで、数人が後退るとオレを殴りそうになっていた生徒も舌打ちをして離れて行った。

「―いい気になるなよ」
すれ違い様、ジャミルの耳元で呟いて去っていく生徒たちの背中をじっと睨んだあと、ジャミルはそのままの表情でオレを射抜くように見た。

ジャミル……ッ」
「来い」
ぐいっと、片腕を引っ張られる。もう二度と離してくれないのかと思うほど、強い力で握られている。
裏庭を抜けて体育館へと入る。部活中なのかと思っていたら、生徒は誰一人いなかった。前世のころとは違う、黒髪を短く切り揃えた頭を後ろから少し見上げる。身長はあの頃と変わらない。ジャミルが前を歩く時は、オレは後ろから少しだけ見上げることが多かった。
広い体育館の奥にある部屋のドアノブに手をかける。扉には更衣室のプレートが貼り付けてあった。
ジャミルはオレの手を一度放すと、部屋の一番奥にあるロッカーを開けてバスケットボールを入れて、引き換えに真新しいタオルと学園のエンブレムのついたリュックを取り出した。
更衣室の中にある洗面所でタオルを水で濡らして、ジャミルはオレの腫れあがった頬にそっと当てる。

「いっ…!」
「これ。自分で当ててろ」
「う、うん…」
冷たいタオルが、傷口に染みる。ジャミルは真剣な顔つきでオレを見つめたあとリュックの中を探る。小ぶりのポーチから取り出した絆創膏を手に、再びオレに近づく。

「良いって、ジャミル!オレは大丈夫だから!」
ぶんぶんと頭を振るとジャミルは怪訝そうな顔をする。絆創膏を貼られてしまうとさすがにジェイドに言い訳ができなくなる。
後退っていると、ジャミルの長い腕が伸びて来て、ちょうど後ろの壁に勢いよく片手を付かれた。びっくりして見上げると、じろりと綺麗な瞳が睨みつけてきた。

「ッ…」
傷ついた口唇に手際よく絆創膏を貼られる。頬に触れるジャミルの指先は優しい。
―前世の遠い記憶、幼かったころも…転んで膝を擦りむいたときも、ジャミルは手当をしてくれていた。それを思い出してしまって、胸の奥底からどうしようもない切ない気持ちが込み上げてきた。
今世のジャミルに記憶はない。幼かった時のころなんてもっての他だろう。オレだけが前世の記憶を引きずり、今に生まれ変わってしまった。
神様は少し意地悪だ。オレだけが記憶を宿して、一番に大切に想ってる人の記憶からはオレのことを消し去ってしまった。
それだけならよかった。ただし巡り会ってしまってはもうだめだ。
入学式で初めてジャミルを目にしたその日の夜には泣いてしまっていた。だってこんなの、意地悪だ。
何も知らずに今世を生きていければよかったのに。

「…泣くほど、痛いのか」
「う……」
気付けば、ジャミルはオレの涙を拭っていた。ぽろぽろと零れてしまう涙はどうしたって止めることができない。
前世のオレはとても元気だったと思う。底抜けに明るくて、おおざっぱで。でも今のオレはなるべく目立たないように、静かに日々を過ごすことを意識していたせいか、自然と物静かな性格になっていた。今のジャミルは、そんなオレになっても世話を焼いてくれる。きっと誰にでも優しいんだ。相手がオレじゃなくても…
涙を拭おうとポケットからハンカチを出そうとすると、ちょうどスマートフォンに着信が入った。相手はジェイドだ。

「…もしもし…」
『カリムさん。今、正門前に着いています。もしお取込み中でしたら、お迎えに参りますが…』
「……あ、わ、悪い!大丈夫だ!すぐ行く!」
『はい。では、お待ちしてますね』
時計表示を見ると、いつもジェイドが迎えに来てくれる時間だった。通話終了ボタンを押してポケットに戻していると視線を感じた。
再び向き合うと、ジャミルは怪訝そうな顔をしていた。

「今の、誰だ?」
低い声が更衣室に響く。

「誰って…あ…ジェイドって言って…オレの世話係をやってくれてるんだけど…」
「は?ジェイド?…お前、アイツらとも…付き合いがあるってわけか…」
「へっ?ジャミル?」
「そういえば隣のクラスの担任も名前がアズールだったな」
「あ、ああ。アズールはオレの家庭教師やってくれていて…」
「あの喫茶店の店員は…フロイドか」
「…ジェイドの弟のこと…か?フロイドも、良い奴なんだ。たまにうちで飯を作ってくれて」
「へえ…そうか。くくっ・・・・俺の飯より美味いか?」
「えっ?」
「おかげで思い出したよ、カリム」

ジャミルはにこりと綺麗な笑みを見せた。ただし、目の奥底が笑っているとは思えない表情で。


***

J-side

***

「…おや。カリムさん。そちらの方は?」
「ジェイド…その…」
「知ってるくせに、よく言えるな」
「ふふふ」

学園の正門前に高級外車を側につけて、行儀よく佇んでいるのはクラスの女子たちが黄色い声を上げていた人物だった。
そいつは俺とカリムを見て、苦笑しながらカリムの学生鞄を自然に持ち運ぶ。
よかったらジャミルさんも、と俺が肩に掛けている大ぶりの学生鞄も預かろうと手を差出されたが、距離を取って拒絶した。

「嫌われちゃいましたね」
「そ、そんなことないぜ、ジェイド!」
「お前、ずいぶんと甘やかされているようだな」
「うっ…」
本来なら、ジェイドのポジションに俺がついていたはずだ。今の俺は、運転免許が取れる歳でもないし、カリムに勉強を教えられる職業についているわけでもなく、店を経営するほどの料理人でもない。
それが、とんでもなく悔しいことだとは思いもしなかった。

「そういえばジャミルさん。言い忘れていましたが、今日は先客がいまして」
「は?」
ジェイドのエスコートによって開けられた後部座席には、もう1人のよく知る人物がすでに奥に座っていた。

「おや」
「……」
隣のクラスの担任教師兼、カリムの家庭教師のアズールだ。

「アズール!今日は勉強の日だったか?」
「カリムさん、昨日もお伝えしましたよ?明日は僕、用事があるので明日の予習分を今日に回すと」
「すまん、忘れてた!」
「全く…ああ、こちら座ります?ジャミル・バイパーくん」
「……白々しい……」
吐き気がしそうなほど、白々しい呼び名で弄り甲斐がある玩具でも見つけたような顔で、アズールはにやりと笑う。
俺のげんなりした顔に気付いたカリムは俺とアズールの仲を取り持つように間に入ってちょこんと座った。

「いつからだ」
「いつから、とは?」
「お前がアジームに雇われてから」
「僕の両親がカリムさんのお父様にお世話になっていまして…まあ、出資関係なんですけど、元々家族ぐるみで交流させて頂いておりました。お父様、カリムさんが体が弱くてあまり学校へ通えていないことを大変気にされていまして、当時教育学部の学生をしていた僕にアルバイトと称しての家庭教師をしてやってくれないかと申し出があったんですよ。前世のお友達だということで、当時小学生だったカリムさんも安心だろうとお父様から直々に契約書をくださいました」
「……」
「ジェイドとフロイドも同じ大学に通っていたんですよ。ジェイドは今カリムさんの執事として雇われています。最初は僕と同じで割の良いアルバイト感覚だったんですけどね。フロイドは…あいつは自由人ですから、気まぐれに、学校近くの喫茶店を経営していますよ」
「あ、ジェイドはな、普段とーちゃんの秘書もしてくれてるんだ」
「……」
ミラー越しにジェイドと目が合い、にこりと微笑まれる。車は静かに動いていた。
俺がいなくてもカリムは生活ができる。
それに今世に至っては、毒を盛られることも刺客に襲われたり誘拐されたり、物騒なことは早々起きない。・・・はずなのに、学園内で目に付けられる羽目になっているのは、カリム自身が気にくわないと思っている輩が多少いるからだ。

前世の俺も、一度はその思想に支配されて裏切ったことがある。なぜ俺ばかりが譲って我慢して生きていかなければならないんだと、不満が募った。カリムを殴った連中も、それに似た感情があったのか。
普段学園に来ないくせに、単位は修得し、もしかしたらテストも免除されているかもしれない。それが資産家の息子となれば、教師陣だってぺこぺこと頭を下げるだろう。進学校の中にも劣等生の部類に入る人間だっている。その劣等生たちがどんなに努力をしたって、教師陣がカリムを贔屓しているような錯覚を覚えてしまっては、嫉妬や怒りの矛先はやはりカリム本人に向かってしまう。
カリムが、どんな人間か、どんな生き方をしているのか、知ろうともせずに―。

ジャミル…?」
「……」
「…オレ、また何かやっちまってたか…?」
不安の表情をにじませたカリムが見上げてくる。俺だけが映るガーネットレッドの瞳が艶やかに光って見えた。また、泣きそうな顔をしている。最後の記憶にある表情を同じだ。傷ついて、苦しそうで、カリムはそんな顔で俺を見てくる。

NRCに居たころはもっと朗らかで能天気な顔ばかりしていたと言うのに。
けれど、そんな顔をさせているのが俺自身だと思うと、ほんの少し優越感に浸れる実感もあった。
これは前世からずっと引きずっている些細な独占欲の結果だ。
カリムの頬に手を当てて、べっ、と舌を出して見せる。

「そうだ。お前の全てが気にくわない」


***


たどり着いたカリムの家は、高層マンションの最上階。カードキーを翳すだけで開く玄関から廊下を渡り、リビングに入った。
高校生が1人住むには広すぎる。
オープンキッチンの傍には質の良いダイニングテーブルとチェア。正直、俺の実家にあるものより広々と使えそうな代物だ。
カリムの通学鞄をラックに掛けて、ジェイドはキッチンに向かった。
冷蔵庫から取り出して並べられていく食材をカウンター側から眺めながら、カリムは俺の方へと振り向いた。

「夜ご飯は皆で食べようぜ!ジェイドの作る飯は美味いんだ!」
宴しようぜ、なんて乗りで、カリムはにこりと笑う。
それよりも聞き捨てならない。誰の飯が美味いって?

「ああ。けど、俺も作る。キッチン借りるぞ」
「えっ!?」
「おやおや」
別に対抗心が芽生えているわけじゃないが、ジェイドはにやにやと笑う。
並べられた食材は魚介に、きのこ類(なぜか種類が多い)、少量の野菜に、市販の固形調味料。料理名の予測は十分につく。
カリムが前世で唯一苦手と言った、俺の好物だ。
どうやら今世のカリムは特に苦手というわけでもないのだろう。だったら、更に、特別に美味しいって思わせるほどのモノを作ってやる。上段にある調味料の棚には様々なスパイスが並べられている、その中からカリムが好きそうだって思えるモノは直感で分かる。
数種類の小瓶を開けて匂いを嗅ぐ。カリムが気に入りそうなものをいくつか卸して、混ぜ合わせる。
隣で具材の下ごしらえをしていたジェイドの手を止め、自ら包丁を握る。何か言いたげな視線を感じたが、そんなことどうだって良い。俺が今ここに来たからにはお前にはきっと、カリムを心の底から満足させる料理なんてできやしない。

大ぶりの鍋に自分で切った具材と調味料を入れて火加減を見ながら中をかき混ぜる。魔法薬学の授業で習ったみたいに、ゆっくりと丁寧に。

「僕の仕事はここまでみたいです」
「ジェイド。お前、姑に追い出されたみたいですね」
「そうなんです。しくしく」
「ジェイド、泣かないでくれ!」
「……」
とんだ茶番を目にしても静かに鍋をかき混ぜることのできる冷静さを俺は持ち合わせている。
こいつら、毎回こんな茶番やってんのか、とか、いろいろと言いたいことはあるけど。

ふつふつと煮込まれた中身を確認して、一旦火を止める。できあがったそれを白米の載った皿に盛りつけて順番にカウンターに出すと、目に見えてきらきら、にこにことした表情でカリムはせっせと皿をテーブルに運んでいく。
そういえば、宴の最中に俺の料理を運ぶ時のカリムは心底楽しそうだった。それは今でも変わらないのだろう。

「いただきます!」
両手を添えて、カリムは行儀よくスプーンを握る。
カレーを掬って、一口食べる。喉を通って、一口だけ終えると、カリムはまた瞳からぽろりと涙を溢した。

「本当、よく泣くな」
呆れて、涙を拭ってやるとごめんな、と小さい声が聞こえた。こんな時、しおらしくなるのはカリムの良いところだ。

「美味くて、びっくりしたんだ。オレの好きな味だ。…これなら、腹いっぱい食べられる」
「カレーは苦手だったんじゃないのか?」
「そうなんだ。元々苦手だったんだけどなあ。今は食べられるようになって…今日のカレーが一番美味い!」
「ふぅん。ジェイドの作ったものより?」
「えっ?」
「ふふふ」
ジャミルさんはお変わりないようですね」
「…うるさいな」
向かい合った席に座るアズールとジェイドは苦笑する。この、面白いものでも見つけたような顔をするこいつらのことは前世から苦手だったが、今でも好きになれそうにない。

「ああそういえば僕、用事を思い出しました。カリムさん、今日の予習は無しにしましょうか」
「えっ?用事は明日じゃなかったのか?」
「ええ、僕としたことがうっかり。間違えていました。ごめんなさい」
「オレは良いけど…」
不自然な流れに俺の眉間は自然に寄っていく。こいつまさか

「タダ飯食いに来ただけじゃないのか…」
「ああ、なんて人聞きの悪い!」
「ふふ。アズールってば、大げさですよ」
さあ、行きますよと、食べ終わった食器類を片付けて、ジェイドはアズールと共に家を出る。カリムはご丁寧にも玄関先まで2人を見送り、気をつけてな!なんて、呑気に笑う。
がちゃり、と、玄関扉が閉まったところで振り返って来るカリムをじっと見つめると、きょとんと顔を傾げた。

ジャミル?」
「お前、気づいてないのか?」
「どういうことだ?」
「…海の魔女とその手下からの慈悲深いお気遣い」
「……ああ!二人っきりにしてくれたってことか!」
「……お前、そういうことは言葉にしないものなんだよ。ムードのないやつめ」
「むっ」
なるほど!なんて、言い出しそうな薄い口唇に人差し指を当てると、カリムは口を噤む。大人しくなったところで、手を引いてリビングに戻り、そっとソファーに座る。
ジェイド、アズール、フロイドが座っても十分な大きさだ。4人で座って楽しく過ごしてた日々もあったのか。俺が知らないうちに、知らないところで…。

ジャミル、あの…手…」
いつの間にか握っていた手に力が籠っていた。カリムから指摘されたところで、俺は力を緩めるどころか、更に力を込めた。驚いて身を引こうとするカリムの肩を掴むと、びくりと、体を震わせた。

「お前はまたそうやって、俺から逃げる気か」
「そんな……」
「勝手にアジームに戻って、勝手に俺より先に……」
目の前が赤く染まっても、弱っていくカリムに回復魔法を与える他なかった。近くの小部屋に逃げ込んで、生きろと何度も念じた。こいつはそんな俺のことなんてお構いなしに、勝手に息絶えた。
途方に暮れていると、騒ぎを聞きつけた父さんが数十人の使用人を従えて屋敷に乗り込んでいた。使用人の中には魔法師も含まれていてその瞬間、一瞬だけ、カリムは助かるんじゃないかと思った。
けれど、首を緩く振られる。遅かった、と大人達が口々に言う。気づけばカリムは白い華が敷き詰められた棺に入れられて、あっけなくその生を終えたのだ。
こんなことでアジームは終わらせない、と、奮起したのは残されたカリムのきょうだいたちとその従者だ。カリムの弟をトップに置き、従者家系の中では父さんが指揮を執り、魔法師を中心に使用人のチームを一から形成した。
俺はNRCを卒業したあと上級魔法師の資格を習得すべく、その年熱砂にできたばかりの魔法学校へ編入した。従者としての鍛錬も怠らず、アジームを再建させるためにバイパー家として、尽力した。
その結果として、アジームから斡旋された見合いも受け入れて、聡明な妻と子宝にも恵まれた。最後は老衰。

けれど、死ぬまで、俺の本心は、ずっとカリムに囚われたままだった。
もしも、NRCの卒業前にカリムを引き戻すことができたなら、カリムは死なずに済んだのか、俺がオーバーブロットさえしなければ、カリムは隠し事なんてしなかったのか。
前世の人生に後悔なんてしてないと、ずっと思い込みたかった。

ジャミル

気付くと、視界が暗い。カリムの肩に額を当てていたせいだ。
温かい掌が俺の背中をゆっくり撫でる。なぜこの温もりを今まで忘れていたのか。

「俺だけが……忘れたままだったのか……」
オクタヴィネルの連中ですらカリムに関する記憶がある。旦那様にも、もしかしたら、父さんにも記憶があったのかもしれない。
俺だけがまた置き去りにされている。

「……忘れたままでよかったんだ、ジャミル。オレはさ、ジャミルに自由に生きててほしい。お前を入学式で見た時に、オレはお前に会っちゃいけないって思った。…駄目だったんだけど…」

静かに呟く声が、心の奥底に染み渡っていく。枯れた草木しかない砂漠の果てに、一滴の雨水が降り注ぐようだ。
肩から額を離して、カリムと向き合う。
俺がずっと求めていたガーネットレッドの宝石から、雨水が滴る。
頬を伝って流れるそれを止めてやろうと指を添えると、カリムも同じような動きを見せる。

「泣かないでくれ、ジャミル
生ぬるい何かが、頬を伝っている。カリムの不安気な表情でそれが涙だと気付かされる。

「そんな顔されたらオレ…退学できなくなっちまう」
「……は?…ちょっと待て。なんの話だ。お前また、俺に黙って勝手なことをしようとしてるのか」
「ジャ、ジャミル?」
ソファーの上で後退るカリムの腕を取って、ぐいっ、と距離を詰める。

「まさか、あの不良共のせいで…心配するな、あんな奴らこそ退学に追い込んでやるよ…お前に手を出されてこの俺が黙っていられると思うか…?」
「ちょ、ちょっと、ジャミル、落ち着いてくれ!オレは、殴られたから退学するってわけじゃないぞ!?これ以上ジャミルの邪魔になりたくないんだ!」
「ッ、」
切羽詰まったような声色で涙ながらに声を張る。カリムは深呼吸をして一度落ち着くと、涙をぽろぽろと溢しながら俺の手を握り返す。

「いまのオレと出会って、ジャミルにとっていいことなんてない。むしろ、オレと知り合いだってだけで学園での立場も悪くなるかもしれない。だから、オレ、とーちゃんにお願いして退学しようって…思ってたのに…やっぱりオレ…」
「……なんだよ」
言えよ、と、急かす。こいつはこんなにうじうじとした奴だったのか。
まさか前世のカリムにも俺の知らない部分がたくさんあったのか。

「オレ、やっぱり、ジャミルのこと…好きで……好きだから守りたくて…あの時は…死んじまったけど…でも本当はずっと……」
一緒に居たかったんだ。

カリムの柔い体を抱きしめた。縋るように、両手が背中に回されて、俺はようやく、心の底からの笑みが溢れ出た。
こんな簡単な言葉、前世で言えなかった。

「一生離してやらない。…覚悟しとけよ」

大人しく目を瞑ったカリムの口唇に、今はただ、触れるだけのキスを落とした。


***


『ラッコちゃ~ん おはよぉ』
『おはようございます』
「フロイド、ジェイド!おはよう!」
インターフォン越しに見える双子に応えて、カリムが勢いよく玄関扉を開ける。

「あれぇ。ウミヘビくんがいる。」
「居て悪いかよ」
「おやおや…ご家族には何と?」
「…別に。友達の家に泊まる、って言っとけば充分だろ」
「と、友達っ!?ジャミルッ…!」
「あはっ。ラッコちゃん感動してんの?」
「お前のこと友達だって思ったことない」
「ええっ!」
「ふふっ。カリムさん、一喜一憂してますね」

たしかにカリムはころころと表情が変わって忙しない。ただそれが俺の一言で翻弄されていると思えば、正直気分が良い。
双子が持ってきた紙袋の中から出て来たテイクアウト用のサンドイッチと、飲み物がテーブルに置かれる。

「フロイドのサンドイッチは美味いんだ!」
「ふぅん」
俺がいくらでも作ってやれるのに、と、喉から出かかった言葉を飲み込む。
透明のカップに入った飲み物はあの日、喫茶店で見た色と同じものだった。

「これ、美味しいんだよー」
「なんのジュースだ?」
小首を傾げるカリムの横で、カップを手に取る。少し上に掲げると、ベランダから差し込む朝陽でより赤く、照らされる。

ざくろジュース」

今度こそ、飲み干してやる。


***

K-side

***

ジャミルが生徒会長になって、学園は一層風紀が良くなったと、アズールは言う。
特にジャミルが提案したサスティナブル月間は近隣の大学や企業にもっぱらの評判で卒業後の進路の選択肢が増えて生徒に指導しやすくなったらしい。

「さすがは策士ですよね。こうして、僕たち教師陣の評判まで上げてしまうんですから。たかが学園の一生徒、というだけでは終わらないのがジャミルさんのすごいところです。NRCの頃も一目置いていましたが、彼は今世でも変わらないようだ」
「うん。ジャミルはやっぱりすごい奴だよ」
オレもなんだか上機嫌になってしまう。
ジャミルがすごい奴だって褒められるのは嬉しい。オレだけじゃなく、学園中の人たちがそう思ってくれてる。


「――――。
最後になりますが、学園生活を支えてくださったすべての方に改めて感謝申し上げます。学園の益々の発展を祈って、答辞といたします。生徒代表、ジャミル・バイパー」

いつかの生徒会長選挙の時と同じように、ジャミルはステージ上にいる。
退学しようってずっと思ってたのに、卒業式のこの日まで、オレはジャミルの近くに居られる。嬉しくて涙が出た。
でもまた泣き虫だなんて思われそうだから、すぐに目元を拭う。
卒業式会場の外へ出て、少し深呼吸をした。手にした卒業証書を持ち直していると、目の前を通り過ぎていく生徒の1人が歩みを止めた。

「カーリムくん!卒業おめでとうっスね!」
「ラギー!」
実はラギーとは中学が同じだった。前世のころから宴に誘えばいつだって乗ってくれる良い奴だ。オレを見かけてはいつも声をかけてくれる。

「ラギーも、卒業おめでとう!」
「シシッ。パーティーはいつでも大歓迎っすからね!」
「ああっ!絶対誘うぜ、次はジャミルも」
「俺がなんだって?」
「あっ、ジャミルくん」
ジャミル!」
ラギーと話していると人だかりの中からジャミルが現れた。目に見えて、オレは喜んでしまう。これが犬なら尻尾すら振っていると思う。

「オレ、まーた、お邪魔になりたくないんで。じゃあね、カリムくん、ジャミルくん」
「お、おうっ!またな!」
なぜか足早に去っていくラギーに手を振る。もっと話したかったなあと呑気に思って隣を見ると、ジャミルは眉間に皺を寄せている。

「あいつにも記憶が…あったのか」
なんて顔してるんだ、って笑ってしまう。

「…なんだよ」
「ふふっ…いや…なんでもない…ひゃみう!」
「ムカつく顔」
「ふふっ、へへっ」
「笑うな」
へらへら笑っていると両頬を指で優しく掴まれて外側に引っ張られた。それってもしかして嫉妬か?ってなんて聞いた日にはジャミルは怒るだろうなって思う。
ジャミルはひとしきりオレの頬を引っ張って楽しむと、すっと指を離した。

ジャミルの挨拶、感動したぜ!かっこよかった!」
「…今はそういうの…いいから…」
「え?なんでだ?…わっ!」
急に顔を逸らされて、納得がいかないオレはジャミルの顔を覗き込むと両手で顔を挟まれた。
近づいてくるジャミルの顔は、ほのかに赤い。
額がぴたりとくっ付いて、ジャミルの熱が移ったみたいにオレも体温が上がる。

「そういうのは…ふたりきりのときに言え」
「……うん」

小さく返事をすると、ジャミルはオレの手を握る。

ゆっくりと歩き出し、大勢の卒業生の中に紛れて銀杏並木の道を行く。
正門の外へ出て、学園の角を曲がったところでジャミルはキスをしてくれた。
それはとても甘くて優しい。

一生ジャミルの傍にいたいって気持ちが、やっと許されたような気がして、オレは何度目か分からない涙を少しだけ零した。

 

***Subsequent story***

 

今日の分の講義は午前中で終わり。
久しぶりに午後からフリーだ。
教材と飯の入ったリュックを背負ってキャンパスの中庭へ行く。
今日は天気が良い。

この大学の良いところのひとつは、広々とした中庭があるところだ。

学生たちは各々のお気に入りのスポットがあるらしく、人が一か所に密集することはあまりない。
入学して数か月、もう少しで汗ばむ季節になる。日中は太陽の熱で暑さを感じることもあるから、木陰のすぐ下なんて最高だ。小さな木のテーブルや椅子だってあるから、こうして弁当を広げるのも荷物を一度卸すのにも最適だ。
ふと、芝生を歩く足音が聞こえてきた。

「遅いぞ」
「すまん!」
申し訳なさそうに下げられた眉。太陽の光に照らされるのは黄金のピアスだ。

「課題提出するの忘れててさ、先生追いかけてたら遅れちまった」
「期限は間に合ったのか?さすがに教育学部の課題は見てやれないぞ」
「おう、ばっちりだぜ!」
褒めてくれ!と言わんばかりに、カリムは隣に座る。

ジャミルは?」
「俺は実習がまだ先だからな。課題ものんびりやってるよ」
「そうなのかあ。理系の奴ら大変そうだったぞ?」
理工学部と医学部じゃ、ちょっと違うだろ」
「そういうもんなのか?」
小首を傾げるカリムを横目に弁当を広げていく。
簡単なものしか作ってはいないが、ピタパンの中はカリム好みに味付けされた鶏肉を挟んでいる。

「美味そうだなー!いただきます!」
溌剌とした声に似合わず、小さく口を開いてかぷり、と音を立てる。カリムは食事中、たとえ軽食程度の時でも、育ち故か上品にゆっくりと食べる。よく味わっているとも言うが。

 

「美味い!」


―ああ。この瞬間だ。
俺しか傍にいない、今ここで、この笑顔を独占できるんだって、そう思わせてくれるこの瞬間が好きなんだ。
やっと、前世の最期を一からやり直せるって実感した。

 

絶対に、一生離してやらない。