ネテモサメテモ。

同人置き場

Timeless(前編)

ジャミル先輩、調子悪いんすか?」
 投げたボールは、的を大きく外れ、床にバウンドして落ちた。時間切れ。ちょっとした練習試合は単純なミスで終わった。汗を拭いていると、後輩のエースはジャミルの横にすっと座り顔を覗き込む。いつも涼しい顔をしている先輩だと思っていたが、今日は妙に、表情が暗い。
 珍しく、ミスも多い。パスまでは相変わらず上手いのに。
 顔と体の向きとは真逆に繰り出すフェイクパスは、敵味方関係なく相変わらず圧倒された。だが、パスを受けて、ゴールまで目指す瞬間。これに関しては、その日の調子で変わることが多い。今日は先輩のダメな日だな、と返事のない横顔を見る。そして視線を上にあげると、黄色い歓声の中にいるはずの人の姿が見えなかった。
 あれ、またか。失礼だといつも突っ込まれる言葉を、エースは容赦なく吐いた。
「まーた別れたんすか?」
「そうだよ」
 ハッ、と乾いた笑いで返す。何回目だろうか、と、エースは思った。エースが入部してからというもの、この副キャプテンは女性関係の噂が絶えない。今日の黄色い声援の中には、一体何人の次の彼女が隠されているのかと、部員たちの中で暇つぶしという名の賭けにすらされていることは本人も知ってる。来るもの拒まず、去る者負わず、の性格のせいか。彼女のルーテインが早い。今回は。
「一カ月っすか?みじかっ」
「持ったほうだろう」
「ひえ~…。俺ならもっと大事にするし」
「言ってろ」
「で?敗因は?」
「…映画。」
「え、まさか。あれ見たんすか。復讐のやつ」
「ああ。途中までは面白かったぞ。男が身を挺して老人を守ってたところとか・・・」
「そんなの、よく女子と見に行きましたね・・・チョイスミスじゃないっすか」
 デートで見に行くもんじゃないっすよ、と、後輩に諭され、ジャミルは罰の悪そうにタオルで首筋を拭った。
 先週の土曜日だったか。翌日の昼には別れたいと一文のメールで関係が終わった。映画の前後も正直何を喋っていたか覚えていない。当たり障りのない、つまらない話だったのだろう。次のテストの話、教師、女友達の愚痴、家族の話。ノリが悪いというわけではない。ただ、興味のない人間と積極的に会話をする気になれないだけだ。
それを言うと、「じゃあ告白断ればいいじゃないっすか。ジャミル先輩ばっかりズルイっすよ」と、後輩に言われた。正直断るのも面倒になる時期もある。結局誠実じゃないだとかなんだとかで振られることが多い。受け身でいると別れる時に楽だと気づいた頃には来るもの拒まずの術を身に着けてしまった。
「別れたことより、映画の内容だ。途中までは面白かった、最後が、ダメだ。休日に見るもんじゃなかったな。」
「不調はそれが理由っすか?」
「それ以外にあるか?」
「わかんねーわー」
 つかの間の休憩時間。次は成功させる。ジャミルは立ち上がった。
顔に汗が張り付いて気持ちが悪い。途中、替えの新しいタオルを更衣室のロッカーから出して、体育館外の水場へ向かう。屋内も外屋外もどこもかしこも暑苦しい。ジャミルのお気に入りの場所は校庭にある大きなケヤキの木の下だ。夏は風が密かに吹いていて、涼しい。水場も、ここだけ新しく作り直されている。蛇口を捻ると冷たい水が流れる。両手で受け止めて、ぱしゃりと顔を洗った。
 ふ、と息をついて顔を上げ、もう一度と、視線を落とすと赤い筋が流れてきた。
「えっ?」
 ぎょっとする。水に混じった赤。血だ。驚いて、片手で口元を抑える。何もついてない。どこから?怪我をしたのか?
きょろりと、見渡すと、水場の端から流れてきてたその正体が分かった。
「あ…」
 白銀の毛髪に、紅い瞳。しゃらんと鳴り輝る、耳元の飾り。
 一瞬だけその空間の時が止まったようだった。
 見慣れない男子生徒は驚いた声を隠すように口元をシルクのハンカチで覆っている。微かに、血がついているのが見て取れた。男子生徒は、蛇口をきゅっと捻って水を止める。蛇口に伸ばされた細い腕や手首が、随分と頼りなく見えた。
「わ、悪い。びっくりさせちまった」
「…いや」
 何をやってるんだ。
 無理矢理に笑い顔を見せられて、ジャミルは問い詰める言葉を飲み込んだ。男子生徒は唇の端が切れているのか、薄い口唇に微かな赤が濡れて光って見えた。
「本当、ごめんな。」
「あっ、おい…」
 口元を見るジャミルの視線に気づいたのか、再びハンカチでさっと隠すと男子生徒は背を向け走り去っていった。
 創膏はいらないのかとか、クリームを塗らないと余計に唇が荒れてしまう、とか。
一瞬で咄嗟の出来事のように、いろいろなシーンが脳内に駆け巡った気がする。
「…なんだよ」
 なぜか、手持無沙汰になってしまった手を引っ込めて、頭を掻く。ジャミルは眉間を寄せて暑い空を見上げた。


***


ジャミル・バイパーくんを推薦ということで決定しました。」
 ホワイトボードにある名前に、クラス内で承認の返事である拍手音が響き渡る。
教師に名前を呼ばれてその場で立つと、「頑張れよ」と、『生徒会長候補演説』と記された資料を手渡された。4年制であるこの学園では次年度で3年次に上がる直前のこの夏の時期に、2学年生の各クラスから生徒会長候補を選ぶ規則がある。
 期待が半分、不安は少々。
 成り行きで選ばれたものだが、きっと自分ならやれるだろう。ジャミルが資料を捲りながら席に着くと、終了の鐘が鳴った。
「さすがだな、ジャミルー!頑張れよ~」
「他人事だな…」
「そんなことねえって!」
「応援してるぜ~」
「バイパーくんなら本当に生徒会長になれるんじゃない?」
「はあ…」
 帰り支度を始めるクラスメイトたちに次々と軽口を叩かれ、ため息を吐く。興味がないわけではない。ただ、これから原稿を作っていくのは少々難儀だなとは思う。今月は期末試験も他校との練習試合も控えているのだ。
「あっ!」
 突然、女子生徒が声を上げる。それを合図にするかのように、数人の女子生徒が窓側に群がってきた。なんだ?と、ジャミルを始め、男子達も一緒になって覗く。
 正門前に、1人の男が立っていた。かなりの長身で、真夏だというのに黒のスーツを着こなし、おまけに白の手袋まで着けている。男は行儀よく真っすぐと立ち、淑やかに両手重ねニコリとした笑みを浮かべていた。
「超レア!」
 女子生徒が黄色い声を上げる。
「はあ?何が?」
 男子生徒達は小首を傾げた。
「滅多に見られないんだよね~!かっこよくない?あの人」
「ていうか、あんな人が迎えに来てくれるってヤバくない?テンション上がるわ~」
「そうそう、目の保養!」
 きゃっきゃと、ハートを飛ばしながら盛り上がる女子生徒に、「あっ、そう。」と冷めた返事を返すのは男子生徒達だ。呑気でいいよな、と、ジャミルも面白くなさそうな顔をする男子生徒に混ざって男を見る。
 すると、男の元へ、一人の生徒が駆け寄っているのが見えて、思わず目を凝らした。
 ふわりとした白銀の頭に、褐色の肌。細い手足首。かなり華奢な身体付きをした。
 あれ、は。

「あれ、アジームじゃね?」
 1人の男子生徒が呟く。

「あっちも超レアじゃん。今日は登校してたんだ?」
「あ、やっぱりアジームのお抱え運転手?執事?」
「いいなあ~あんな人が執事だなんて」
 うっとりと男を見つめる女子生徒達。気を取られないように、ジャミルはアジームと呼ばれた男子生徒を凝視する。きらきらとした黄金のピアスを揺らして、男に笑いかけている。男は、自分より小柄なアジームの歩幅に合わせて、ゆっくりと車道側を歩いてみせる。正門を出た二人は角を曲がりやがて姿が見えなくなった。
 注目の人物がいなくなったことで、窓側に張り付いていたギャラリーが散る。
「うおっ、なんだよ」
 ジャミルは、その中の一人の男子生徒の腕を捕まえた。
「さっきの。アジームって、あのアジームか?」
「まあ、噂だけどなあ。アジームの御曹司がここに通ってるって。」
この国で『アジーム』を知らない者はほとんどいない。有名な大富豪の名だった。
進学名門校と言われる学園に通っているとしても不思議ではないが、ジャミルは入学してから、そもそも、あの男子生徒を間近で見たことがなかった。あの水場で見かけた、以外に。

「金持ちの特権ってやつ?ほとんど通ってないらしいぜ。幽霊生徒ってか。いいよなあ、それでもお咎めなしだもん」
「お抱えの運転手がいるぐらいなら、お抱えの家庭教師もいるんだろうし、困らないもんねえ」
「テスト前になったら登校してるらしいぜ、同じクラスの奴が言ってた」
「にしても、大富豪の御曹司ってわりに目立たねえよな。俺名前知らねえもん」
「名前、なんて言ったかなー」
 うーんと、腕を組み悩む男子生徒に、むず痒い気持ちになる。
 知ってる気がするのに、声に出せない。なぜ、自分でもそう思うのか、ジャミル自身も分からなかった。

「そう、たしか、名前は――」


***

 呻く暇もなく、頬を打たれる。
 カリムがその場に蹲ると、背中を足で蹴られた。
「ほんとつまんねえなあ」
「で、金は?」
 髪の毛を掴まれて、顔を上げられる。その痛さに一瞬目を細めるが、カリムはすぐに口を開いた。
「昨日も言ったろ?オレは財布を持ち歩いていないんだ。」
 にこりと笑って見せたことが癇に障ったらしい。男は拳を振り上げて再びカリムの頬を殴った。まだ塞がれていない傷口が開き、唇から血がごほりと出る。
手の甲で雑に拭うと、カリムは立ち上がって男を睨んだ。

「顔はやめてくれって言ったよな。とーちゃんに説明するのが大変なんだ」
「ナメた口聞いてんじゃねーよ、坊ちゃんが」
 胸倉を掴まれて、掲げられた拳に目を瞑ると次は反対の頬を殴られカリムの身体はふらりと横に揺れた。倒れそうになったところでなんとか壁に手を着く。
その弱弱しく見える態度に満足したのか、男はカリムに向かって唾を吐くと去っていった。汚れたボトムの裾を手で軽く叩き、すう、と、ため息を吐く。
 一度や二度ではない。学園でどんな立場に置かれているのかカリムは十分に理解をしていた。最近、2年次生になってから見えてきたのは、あからさまな、嫌がらせ。
ほとんどの授業に出ないのに、学園側から咎められない、大金持ちの一人息子。なら金の無心をしてやる、と。それを断ると、気に入らないのか殴られることが頻繁になってきた。進学校と言えどもこういう輩は昔から居た。誘拐や毒を盛らないだけ今世はマシなほうだと、思う。守らなければいけない兄弟だっていないので自分だけが耐えればいいだけのことだ。ただ耐えて、目立たないように、入学式で見かけたあいつに近づかないように、それでひっそりと生きていこうと思っていた。
 学園に通うなら、実家の居場所を知られたくはない。目立つことはしたくないと主張した自分を、前世を知る父親は、快く承諾して自由を与えてくれた。執事を添えての生活を条件に用意されたマンションで暮らすことに、だいぶ慣れてきた方だと思う。

 今日もきゅっ、と水場の蛇口を捻る。切れた唇と、頬の腫れを少しでも冷やそうと洗い流し、ポケットの中を探る。
「あ、あれ?」
 いつも執事が準備してくれていてるはずのハンカチがない。部屋に忘れてきたのか?両方のポケットをごそっと探ってはみるものの出てこない。あとは、鞄。鍵を外して中を見る。やっぱりない。これも嫌がらせの一種か、自分の忘れ癖のせいなのか。俯いていると、足元にぽたぽたと水滴が地面に落ちる。地面には、蝉の抜け殻もあった。
 今日も暑いな。まあ、いつか乾くだろうぼんやり思っていると。

「おい」
 頭上で声がする。ぱっと顔を上げると、ノースリーブの赤いフードを着た男子生徒が、手にしていた白いタオルをすっとカリムに差し出してきた。
「えっ…?」
「ハンカチ、ないんだろう」
 ぶっきらぼうに答えて、顔を逸らす。右側に垂らしている漆黒の前髪は表情を隠していた。受け取れ、と言わんばかりにタオルを押し付けられるが、カリムは躊躇する。
 新品に近いタオルだ。使われた形跡がない。こんなに綺麗な白を汚してしまうのはさすがに悪い。洗ったばかりの口元の傷口からまた少し、たらりと血が流れる。鉄の味がする。思わず手の甲で拭っていると、はっと気づいた男子生徒は、眉間に皺を寄せてタオルをカリムの顔面に押し付けた。
「わ、っぷ!」
「手で擦るな!余計汚れるだろう!」
「ご、ごめ…」
「絆創膏、持ってないのか」
「うん…。でも放っておいたら瘡蓋になるからさ、大丈夫だ!」
 タオルをずらし、にこりと笑って見せると、男子生徒はあからさまに嫌な顔を見せた。
「俺も今、絆創膏の持ち合わせがない。…とりあえずそれ、やるから。」
 ふいと、顔を逸らされる。カリムは顔を振った。
「だめだ!そんなの、悪いよ。洗って、必ず返すから。…ありがとう、バイパー。」
 タオルにタグに書かれてある文字を見つけて恐る恐る声に出すと、男子生徒はカリムに向き直った。
「…ジャミルで良い。」
どくん、と心臓の音が大きく聞こえたような気がした。カリムは目を見開いて、ぎゅっとタオルを握りしめた。
「その呼び方、あまり好きじゃないんだ。…お前、名前は?」
 記憶の中の過去と重なる。学園を去る時に見たジャミルの表情は悔しそうで、やり切れさなさも感じた。あの時と似ている。
 カリムは覚悟を決めて口を開いた。

「…オレは、カリム・アルアジーム。」


***

「ここも、間違ってる。この間教えたばかりですよ。」
「ごめん…」
 はあ、と、机に突っ伏すカリムの横で、アズールは採点を終えた答案用紙をカリムに見せた。赤ペンで跳ねられた箇所の多いそれをみて、カリムはしゅんと、肩を落とす。アズールとの個人授業は週に4回、自宅で行われる。カリムの通う学園の教師として、また、アジームに雇われた家庭教師として仕事をこなすアズールとは過ごす時間が比較的多い。見合った報酬さえ払えば、カリムの良き話し相手にもなってくれるアズールは過去の姿とさほど変わらなかった。
 コン、と、自室をノックする音が聞こえる。はあい、と間延びした返事をカリムが返すと、奥からティーセットを持った執事の姿が見えた。

「カリムさん、アズール。お茶が入りました。休憩にしましょうか」
「やった!」
「まだ今日のノルマは終わってませんが…まあ、いいでしょう」
 にこりと笑うカリムに、執事のジェイドも微笑み返すと持ってきたプレートを置き、2人の前にカップを並べた。ポットから紅茶を注ぎ、カリムの飲むカップには砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。相変わらず、信じられない量を入れるものだと、アズールはうっ、と眉間に皺を寄せた。砂糖を入れ終え、安心したように紅茶を口にするカリムを見て、ジェイドはそういえばと伏し目がちに言葉を紡ぐ。

ジャミルさんにお会いしました?」
 ごくん、ごほっ、がほっ。
ジェイドの言葉に驚いたカリムは咽る咳を落ち着かせるために、なんとかゆっくりと呼吸を繰り返す。大きく息を吐いたあと涙目でジェイドを見上げた。
なんで、どうして。そう訴える瞳に、ジェイドはおや、と首を傾げる。
「しっかりと、お名前が記載されておりましたので…。」
「あ、あれは!自分で洗おうと思って置いてたのに!」
「きちんと洗って、しまってありますから。確認しておいてくださいね」
「う、うん…ありがとう、ジェイド…」
 洗濯籠の付近に折りたたんで置いてあったはずのそれは、執事兼世話係の彼の手に渡ってしまっていたらしい。顔を真っ赤にして慌てふためいたあと、しゅんと肩を落とすカリムの様子を眺めて、アズールは砂糖の入っていない紅茶を口にする。
「オレ、ジャミルに近づくつもりなんて全然なかったんだけど…あいつ、優しいから…タオルを貸してくれて、それで…。」
「優しい?先日、女生徒が振られたと嘆いていましたが。」
 アズールは優秀な教師だ。カリムは学園の様子のほとんどは、アズールの口から教えられることが多かった。
 この世界で生きるジャミルは、どうやら、成績優秀で人望があり、クラス、いや、学園中の人気の的となっている。バスケ部に所属していて、運動神経も抜群。2年に上がってすぐに副キャプテンになったらしい。文武両道、容姿端麗と来れば、当然、女生徒に言い寄られることも多い。彼女の噂は常にたえないらしい。先日まで付き合っていたのはアズールの担当するクラスにいる女生徒だった。これで、聞いた噂の数は指折り数えると10人を超えた。
「優しければ、そう簡単に恋人を手放さないでしょうに。」
 アズールはティーカップを置き、答案用紙の採点に戻る。たしかに言うとおり、ジャミルは一人の女子生徒と長くは続かないタイプだった。最長は1か月、2カ月程度。アズール曰く、別れるほとんどの理由がジャミルから女性を振るというもので、最初、聞いた時は驚いた。
 ジャミルは異性に対して一途なタイプだと勝手に思い込んでいた節があった。何事も妥協を許さない、ハマったらとことん突き詰めていく。料理も、従者としての訓練もも手を抜いたことがない。勉強だってそうだ。前世で学園に居た頃、カリムに遠慮して発揮できなかった分、いまでは隠すこともなく常に成績優秀者として名を連ねている。こんなジャミルだからこそ、好きになった相手には、完璧に、一途に想ったりしてくれるんだろうと想像して胸の奥がちくりと傷んだ夜もあった。簡単に女性を振るなんて姿はあまり想像がつかない。自分が女性だったらと思うと、くん、と喉の奥が締め付けられたような感覚になりそうだ。
 『大嫌い』だと言われたときと同じように、振ったりしているんだろうか。
 だめだ、と頭を振る。いまの世界に、ジャミルの側に自分がいることを想像してはだめだ。ジャミルはアジームもバイパーも、何の足枷もなく、自由に生きるべきだなのだから。あの時だってそう思って手放したのに。
 カリム・アルアジームは、苦労知らず、世間知らずの大金持ちのお坊ちゃん。生まれつき身体が弱く、執事と護衛なしでは生活ができない。学校にはほとんど通えていない。出会うことで利害が一致するようなメリットなんてない。
 カリムは赤でバツ印を付けられている答案用紙に向き合った。

「迂闊だったよ、オレ。失敗ばかりだな。」
もう会わないようにしないと。
 言うと、アズールは肘をついて、参考書を開いた。
「失敗は成功の元、と言いますけどね。お父様から多額の報酬をいただいておりますから、しっかり点数を取ってくださいね」
「おうっ!…って、いたっ…」
「カリムさん」
 切れた唇の痛みに眉間を寄せると、ジェイドはカリムの顔を覗き込んだ。瘡蓋になるはずのそこからはまたぷっくりとした小さな血の玉ができていた。また傷が増えたな、と思いジェイドはため息を吐く。
「…目立ちたくないから手を出さないでくれという契約ですけど、あまり傷が増えてしまうとカリムさんのお父様に叱られてしまうのは雇われの身の僕ですよ?」
「ついでに、僕も監督不行き届きとして呼び出されるでしょうね」
「ははっ、すまん!卒業までの辛抱だからさ。顔はやめてくれって言ってんだけどなあ」
 目尻と眉を下げて笑い顔を作る。幼馴染の人生を優先するために、かかる火の粉は自身で耐えると一度決めた主の決意は頑なだった。いっそ哀れにも映るその笑う瞳に、アズールとジェイドは前世の彼を思い出し顔を見合わせると同時にため息を吐いた。

―翌朝。
 正門前に車が停められる。ジェイドはサイドギアを引くと、後部座席に座るカリムに紙袋を手渡した。身は洗い立ての真っ白なタオルだ。上質な柔軟剤を含ませたそれは、カリムの制服と同じく少し甘めの匂いが鼻を掠めた。
「ありがとう、ジェイド」
 持ち手を握って礼を言うと、ジェイドはすっと目を細めた。
「…カリムさん。事を荒立てたくないから助けを求めない姿勢は素晴らしいですが、その美徳はいつか貴方の身を滅ぼすかもしれませんよ」
 きゅっと唇を閉じて、紙袋を握る手に力を籠めてしまう。カリムはジェイドの表情を覗うように瞳で見上げた。
「ジェイド、怒ってる…のか?」
「そう見えるなら、そうかもしれません。いってらっしゃい、カリムさん。」
 優秀な執事は、作り笑顔でカリムを送り出す。
 正門をくぐり振り返る。いつもは手を振るはずが、ジェイドは姿勢良く立ち両手を前にそろえたまま微動だにしなかった。カリムは気まずさを感じ、目を伏せてとぼとぼと校内へ向かった。
 朝の予鈴が鳴るまであと何分か腕時計で確認する。

「カリムくん?」
 ジャミルの居る教室に向かう途中、後ろからかけられた声に振り返る。
金色のふわりとした髪が窓から差し込む風に揺れる。カリムはぱっと表情を変えた。
「ラギー!?」
「やっぱり、カリムくんだ。噂には聞いてたんスけどここに通ってるって」
「ラギーも、入学してたんだな!知らなかったぜ、久しぶりだなあ!」
「わっ、ちょっとっ、」
 両手をぎゅっと握り、ぶんっと上下に振る。ミドルスクールが同じだったラギーと再会できるとは!と、カリムはうれしさに顔を綻ばせた。握られた手首を見て、ラギーは首を傾げる。
「ちょっと痩せた?」
「え?そうかなあ…飯はちゃんと食ってるぜ!ジェイドの飯は旨いぞ、よかったらラギーも今度うちに食いにこいよ!そうだ、レオナもジャックも呼んで、パーティーをしてもいいな!」」
「え、まじっスか!?ぜひ行かせてくださいっス!」
「じゃあ、―」

「邪魔だ」

 いつにしようか、と、続けるつもりだった。
 突然聞こえた声の主は、カリムを不機嫌に睨んでいた。教室の入り口で話し込んでいたせいだ。ラギーはげっと顔を顰めると、カリムと距離を取った。

「ごめん、ジャミルくん。俺は何もしてねえっスからね!それじゃあね、カリムくん」
「え?あ…うん、ラギー…。またな。」
「……」
両手をぱっと上げて見せて、ラギーはその場を去った。

声の主に振り向くと、むすっとしている。邪魔だって気づかなかった。早く謝らないと。それに、当初の目的もある。

「ご、ごめんな、ジャミル。これを返しに来たんだ。ありがとう!本当に助かった!」
両手で持ち手を握って、ジャミルの目の前に差し出してみると不機嫌そうな顔はそのままに片手で受け取られる。

「こんなに大層な袋に入れなくたっていい。袋は返すよ」
「えっ…あ、そ、そうか。ごめんな。邪魔だもんな」
タオルを取り出して、空の紙袋を突き返される。
ジャミルは目を合わせることなく、教室の中へと入る。
声を掛けようにも、何も良い言葉が浮かばない。空の紙袋を手に持って俯くと、カリムも自身のクラスの方向へと戻っていった。

ぴたりと歩みを止めて、振り返るが姿はもう見えない。