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ABOUT
TWST・KHの非公式二次創作置き場になります。公式様とは一切関係はございません。CPは、twst→ジャミカリ(カリム右固定寄り)、kh→空受け全般です。同人にご理解のない方は閲覧をお控えください。又、無断転載・オークション等への出品などは固く禁じております。
管理人・製作者/ゆるた
⚠リンク先がないものはただいま準備中です
BOOK(未定)
Dolls (ジャミカリ・パラレル・ドール特殊設定 R18予定) (ページ数・価格未定)
➥◆Dolls序章 (サンプル)
※執筆検討中。
TWST
※すべてジャミカリ前提です。他キャラ・オリキャラ多数出演しています。
※R指定のものはすべてピクシブに置いております。→users/36584593(pixiv外部リンク)
NRC編
ようこそ、おかえり/やがて晴天へ/スカラビア寮生による報告/毒にも薬にもならない約束/もうすこしがんばりましょう/
アジーム捏造編(幼少期・学園卒業後等。モブ・オリキャラ多数・カリム既婚描写あり・アジーム内の治安は悪め)
なんてやさしい食卓/雷雨/とある旅人のはなし/密やかなる/花は摘まれた/原石に捧ぐ/使用人Aの日誌/たとえばなし/ナイト・フラッシュ・バック
パロディ
Dolls序章(新米建築家と特殊設定ドール)
プリンス☆メーカー(現パロ特殊)
可愛いあいつは誰ですか?(現パロ)
落描き絵
Dolls設定集/アジーム捏造/ゲーム内イベント編(ガラ・スケモン)/ タイムレス初期設定画/落日を呑む設定画/拍手絵/旧スカラビア寮&アジーム記念館について
KH
※すべて空受け前提です。
※R指定のものはすべてピクシブに置いております。→users/36584593(pixiv外部リンク)
☆→陸空 ★→若空 △→六空(その他・空受け)
可愛いあいつは誰ですか?
人生は、退屈な日々の連続だ。
毎日が同じことの繰り返し、取引相手にぺこぺこと頭を下げ、オーバーワークをこなす。
たまに発生するイレギュラーなことと言えば、恋人からの『別れたい』というワードから始まる、イベント。
そして、旧友からの誘いがあればふらりと夜の街に出ていく。
猛勉強の末に有名大学を出て、有名企業に入り、出世ルートをただ突き進む。所謂、社会的には勝ち組というやつだ。誰しもが羨む、そんな人生を送っていると自分では思っていたが、時折、友人からの誘いで夜の街へ出る自分に惨めさを感じる。
それが想像以上に、つまらなくも、感じてしまうのだ。
メイクに髪、服、めかしこんで、今日のお目当ては一体誰なのか。
学生客の多い洒落た居酒屋に似合わないブランドのバッグを座敷の隅に置いて、女性陣はぞろぞろと座る。
男性陣は一応社会人でそろえているが、相手はどうやら女子大学生とやららしい。
「かんぱ~い!」
ジョッキとグラスの合わさる音。
上機嫌に安い酒を煽るのは大学時代のバスケ部の連中だ。
こんな店、金のない大学生が楽しんで立ち寄るような店だ。今日はあまり目立ちたくないと思った俺は、一番端の席に座っていた。
目の前には先輩が呼びつけた他校の女子大学生が部員の人数分、ずらりと横に並ぶ。綺麗ドコロを集めたと自信満々に言っていた。
隣に座る大学の同期だった連中は、〇〇ちゃんはミスコン優勝者で、あっちの〇〇ちゃんは某事務所所属の読モで、とご丁寧に説明してくれる。
あ、そう。と返すとバイパーはつれないな、などと言われた。興味がない、とはっきり言ってしまえば空気が凍るのは目に見えてるので、茶、ではなく、酒で濁す。残業終わりの炭酸の効いた安い酒は、案外美味く思える。
「ジャミルくん」
話の流れで急に、(正直、あまり話を聞いていなかった)自分のファーストネームを呼ばれて、ん、と反応してしまう。
「ジャミルくんって、どんな子がタイプなの?」
「・・・・・・俺は、」
と口を開きかけた瞬間だった。
ガッシャーーーーンッ!
「何やってんだ!」
グラスが壮大に割れる音と、驚いた声。
その方向へ目を向けると、ふわりとした真珠のような髪色をした男が、怒鳴る声主に向かってぺこぺこと頭を下げているのが見えた。
男と数人のスタッフがしゃがみ込んで割れたグラスの片付けでもしているのか、姿はすぐに見えなくなる。
「大変そうだね~」
手の甲にあった指を引っ込めて、ネイルを眺めながら自身の髪に指を絡ませて弄び始める。
もう興味を失ったのか、まあ都合は良いが。と、あっけにとられていると、大学の同期だったフロイドが長い手を上にあげてひらひらと振り始めた。
そういえばこいつもいたんだった。
「ね~!注文~!」
「は~い!」
高い声が響く。店員が来たら俺もついでに注文しようか。スイッチ押したけど。
数十秒後、バタバタと忙しそうな男がやってきた。
いいのかそれ。と、思うほどの大ぶりのピアスを付けて花が咲いたような笑顔を見せる。
「お待たせしました!・・・・って、フロイド来てたんだな!」
「久しぶり~ラッコちゃん」
「元気してたか?また店に行くって、とーちゃんが言ってたぜ」
「そんなことより~注文!」
「ははっ、悪い悪い!お伺いします!」
「ウミヘビくんは~何にする?」
「は」
フロイドに突然振られて、ちょっと吃る。
「あ。…じゃあ、生で」
「なま…」
「……」
ガーネットの瞳がうつむき気味に、小さな唇の隙間から聞こえる控えめな声。こないだ野郎同士でふざけてみたセクシービデオよりエロかった。びっくりした。 ここまでエロい「なま」を聞いたことがない。
ちょっとトイレ。一旦休憩。落ち着こう。俺は酔っ払ってる。いやたしかにあのバイトは今までみたことがない容姿をしているのだが。女子がキャッキャウフフする理由も分かるんだが。顔が中性的すぎるのか?いやでもよく見たら体も細っこいし、何食ってんだ…てかフロイドの友達?
ラッコってなんだよラッコって。絶滅危惧種かよ。いや絶滅危惧種みたいな見た目してたけど。いやラッコはまあ、わかる。ラッコちゃんってなんだよ。可愛いかよ。ハハッウケる。ばか。ウケねーわ。男だろあれ。女子じゃねーんだぞ。あータバコ吸いたい。やっぱり帰ろう。
用を済ませてトイレのドアノブに手をかけたところで、
「あっ!!」
真珠髪が胸に飛び込んできた。
店内の陽気なBGMで鼓膜が震える。ついでに俺の手も震える。なぜか真珠髪バイトの背中を支えている。いやなんでだ。反射神経良いにもほどがある。ジムに行く回数減らそう。
「すまん!」
それが客に言う態度か。にこにこ。へらへら。笑いやがって。また転けたんだ。こいつ。通算5回目。いい加減気付け。
お前、他のバイト店員に
「嫌がらせ、されてんだろ」
「オーダー取って持ち場に戻るとき、カウンターから脚が出てきた。それに躓いた。最初に割ったグラスもそいつが原因だろ。女性客がお前を笑って許した後、脚を踏まれてたな。だいたい相手は男の店員だ。同じバイトか?同期か?どうせ今も同じ奴に背中でも押されたんだろ。相手が俺だったからよかったものの。本当は酔っ払った下衆な親父目的にタイミング良く?後ろから?背中を押されたんじゃないか?お前、見るからに、そういう類の悪戯されそうだしな。」
しかし我ながらよくまわる口だ。酔っ払ってる。本当に。「そんな、」小さくて薄い唇が開いた。
「そんなこと、言わないでくれ。あいつらいい奴なんだ」
いい奴?どこが!男の嫉妬か、お前のへらへらした顔にイラついたのか、気に食わないのか知らないが。やるなら正々堂々やれ。脚を引っ掛けて転ばせる?下衆な客相手に悪戯させる?後者なんて冗談じゃない。腹わた煮えくりかえる。
もしこいつが生粋の箱入り息子だったらどうする。親は泣くぞ。
嫁に…
「嫁にいけなくなってもいいのか…」
「え?」
こいつが嫁に…嫁に…?誰の馬の骨かもわからないやつに…
気持ち悪い…考えただけで吐き気してきた…
「オ"ェッ… 」
「お、お客様、吐い… ギャーーーーー!」
***
頭が割れそうだ。ぐわんぐわん。目が回る。気持ち悪い。本当に気分が悪い。昨日はそうだ。合コンに誘われた。そこにラッコがいた。可愛かった。ただそれだけだった。もっと見たかったとか、身長が170もなかったとか、普段何食ってんだとか、そんなことを考えいたら手が震えていたのは分かった。
きょろりと辺りを見渡す。ビジネスホテルの一室。それにしてもやけに広い。スマホを見ると、フロイドとその他野郎どもから。あとでホテル代とクリーニング代請求するから、の、メッセージが入っていた。この胸やけ、気持ち悪さには心当たりがある。悪酔いをしたのだ。
アルコールには強いほうだと思っていた。まさか自分が?トイレから出たときが限界だった。あと意味の分からないことを店員相手に口走ってしまった記憶もある。残念ながら内容は朧気だが。それにしても壮大な失態をやらかした。大方、フロイドたちが介抱してくれたのであろう。服は全部脱がされていた。
乱雑に詰まれた衣類は触りたくもないほどだ。
「……シャワー、浴びるか…」
昨日の自分は本当にどうかしていた… と、ベッドから起き上がると、ピンポン、と、チャイムが鳴った。
不審者か?あいにく、大失態を犯した翌日だ。今の俺にはなにもない。服だって着てない。一応クローゼットの中を漁って、バスローブらしきものを発見したので着てみる。ビジネスホテルにしては良い素材を使っている。ふわふわだった。まるで。あの時、胸に飛び込んできた真珠髪みたいに。
扉の近くまで行くと、モニターが見えた。ビジネスホテルのくせに、モニターフォンがあるのかよ。対応ボタンを押す。扉の先に見えた姿にぎょっとした。
「あー、えっと・・・おはよう?」
モニター越しに見えたのは真珠髪のバイト店員だった。その表情はなんとも、心配そうに、眉を顰めている。なぜか、早く”なま”で見たいと思った俺はすぐにロック解除した。開けてくれなんて言われてないのに。
ガチャリ。扉を開けた。あの時のバイトだ、とばかり思っていたが、どうやら身に着けているものが違う。きらきらと輝く大振りのイヤリング(顔が余計小さく見える)、シンプルな白シャツと黒のボトム(よく見れば高級ブランドの刺繍が入っている)、革ベルトの腕時計(学生では到底買えない値段のもの)
頭の先からつま先まで、あの居酒屋で100年バイトしてたって、到底、買える金額ではないものばかりだ。いや、おおげさか。着飾ってる、というほどではないかもしれない。とても自然に着こなしている。ここまでブランドモノを揃えると、人間は、ブランドに着られているという錯覚を起こすものだが
このバイトにはそんな野暮な空気がない。あの店ではどんくさい奴にしか見えなかったのに、これでは本当に、財閥の御曹司みたいだ。しかも、なんの嫌味もない、清く正しい方向性に育てられたかのような、箱入り息子だ。ガーネットの瞳が物語っていた。
「…そんなに見られると、はずかしいな」
あはは、と、控えめな笑いが響く。バイトが部屋に入ったのを確認するとすぐさま扉を閉めてしまった。俺としたことが。これじゃ余裕のない奴みたいじゃないか。
食い入るように見てしまったと自覚して、背を向ける。
「何しに来た。」
ナニシニキタ。なんでさっきからこんなに余裕がないのか自分でもわからない。
「大丈夫かなって、思ってさ!昨日は大変だったから」
今俺は、穴があったら潜り込みたいと思っている。そう、ウミヘビのように。
「ここさ、オレのとーちゃんが経営してる系列会社のホテルなんだ!おまえ・・あ、お、お客様?が昨日、酔っぱらってて、えーと、倒れちゃったから、オレとフロイド達でここまで運んできたんだ。かなり酔ってるみたいだったから、一番近いここを選んでさ。それで、料金のことなんだけど、それは、気にしないでくれ!オレの当たり所?が悪くて、おま、お、お客様が倒れたんだし、オレの責任だ。これをお前、あ、お客様に伝えたくてさ!」
ぐわんぐわんと頭に響く。シャワーへ行こうとしていた足を止め、くるりと振り返り、ゆらゆらと、バイトに近づく。いやもはやバイトではない。
「?」
きょとんとする顔を見下ろす。
「…さっきから…」
「ん?」
「お前お前ってうるさいんだよ!俺の名前はジャミルだ!ジャミル・バイパー!覚えとけ!!!」
「お、おう?」
きょとん顔にきょとん声。なんか知らんが、最高にムカつく。この頬を横に引っ張ってやろうか、とか。そういう気持ちが沸いてくるのをなんとか堪えて、再びシャワー室へ目指す。
「あ、フロイドが言ってたから名前は知ってるぞ!それに、名前を知らないとここには泊めてやれないからな!」
背中にかかった言葉が、やはり、ムカつく。なんで今フロイドの話をする必要があるんだ。俺以外の男の名前を出すな。そもそもお前の名前、知らない。雑念をかき消すように、脱衣所に向かい、風呂場の扉を乱暴に開け、鍵をガチャリと閉めた。入ってくるなこれ以上。なんか知らんが、ムカつく。シャワーの蛇口を捻る。
「ギャーーーーーーーー!!!」
「ジャミル!?大丈夫か!?」
「冷たい!!!!!!!」
「あっあっ、お湯!お湯のボタン押してない!」
「早く押せ!馬鹿!」
「すまん!」
ラッコが慌てて脱衣所にある給湯ボタンを押したようなシルエットが見える。早く押しとけ。でも気づかなかった自分が悪いのも分かっている。
冷水からあたたかな湯に変わる。全身にシャワーを浴び終えて、脱衣所に出てみると洗い立ての衣類が丁寧に畳まれた状態で置かれていた。
それを着て、俺はやっと生まれ変われたような気がした。
***
「おっ!風呂あがったか!」
「まだ居たのか」
部屋に出て見ると、2人掛け程度のソファーに腰かけて備え付けのテレビを見ていたラッコがくるりと振り返る。
「うん。心配だったんだ。どうだ?スッキリしたか?」
「……」
これを、優しさの押し売りなんじゃないかと、捻くれた自分はそう思ってしまう。が、ラッコの瞳は嘘なんてなにひとつついていないように、よく磨かれた宝石に似た綺麗な色をしていた。…いい加減、名前のひとつでも知るべきじゃないだろうか。
「…まあ、スッキリはしたよ」
「よかったぜ!」
にこり、きらり。光るのは笑顔と黄金のピアスだ。にしてもたかが一客に、バイト風情がここまでの部屋を用意するのだろうか。親が大金持ちとかなんとか言っていた気はするが、ならバイトなんてする必要がどこにある。
「お前…ここまでする義理はなんだよ。たかが客ひとりに部屋まで与えて…」
裏がなきゃ、俺はここまでのことはしない。介抱する客同士を見送ることすらも怪しい。なんの見返りが目当てなんだ。
俺が絶世の美女ならまだしも、ラッコより体格も良いし背だって高い。まあ、友人になって損はないだろうが、にしても対価に合ってないだろ。
ガーネットの大きな瞳が丸く開かれ、柔らかく目尻が下がった。
「嬉しかったんだ。オレのこと、心配してくれたろ?」
「……そんなこと…」
「オレは、嬉しかったから。その後もずっと気になってて…あ、でも、本当にみんな良い奴なんだぜ!それだけは誤解しないでくれよな!」
正直心配した覚えもあまりない。ただ、こいつが嫌がらせを受けているんじゃないかと指摘は…したような気がする。
見返りがないって言うなら、そろそろ名前ぐらい教えろと、口を開く。
「お前、名前はー」
「あ」
ちょうど、テレビではとある大手企業の定期株主総会のニュース映像が流れて来た。
取締役社長と役職のついた男が映る。
『代表取締役のアラン・アジームです。本日は御足もとの悪い中、皆さまにお集まりいただき…』
「とーちゃんだ」
「……………は?」
ただのバイトじゃないとは思っていた。どこぞの金持ちのボンボンだろうと。親がこのホテルを所有しているぐらいだ。
それが、思っていたより、あまりに有名すぎる大手企業の御曹司だったって話だ。
「アジーム…って、あの…?アジーム商事…?」
「おうっ!あ、まだ言ってなかったな。オレの名前はカリム。カリム・アルアジームだ!」
「…………」
「どうした?!顔色が悪いぞ!あ、救急車呼ぶか?とーちゃんの秘書に電話したらー」
「やめろ!!!絶対余計なことするなよ!!!!」
とある旅人のはなし
※癖強めのオリキャラ(モブ)視点。
ほんのりジャミカリ前提のジャミルメインです。
_____________________
「なんでも魔法に頼るのはな、よくないねん」
苦しそうに息を吐く御曹司くんに向かって言ったものではない。周囲に向けてだ。
先人たちのアナログ療法に、時代に合わせてプラスされていくのが魔法医学療法だ。これを発展医学と言う。なにごとも、メリットだけの治療法なんてない。できる範囲は科学の力を使う。我が国はそうやって生きてきたおかげで世界一位の長寿国にまでなったのだ。
こんな点滴ひとつ、魔法で補おうとするものではない。まずはその魔法を解除して、手持ちのボストンバッグから祖国から持ち出してきた袋のボトルと、チューブをセッティングしていると周囲が騒つく。なんや、見たことないんか?と、少し威嚇してやる。人間、初めて目にするものを前に怖気つくものなのは分かるが、そうじゃない。そんな得体の知れないものを、大事な若き御曹司様に、ああ。なんておぞましい!喋りはせんが、視線が煩いねん。
「さーてと、ほなら、毒解除していこか。当然、手伝ってくれるよなあ?助手くん」
パシッと投げたゴム手を片手で受け取った男は、数年前に比べると背丈も伸びて、顔つきもまた一層男前になっていた。
「誰が助手だ」
男は、口角を上げた。
______________________
「おはよう〜ございます〜!しっかし、今日もあっついなあ〜」
おはようございます、そうですね。ぺこり。
最近の若者はなんて礼儀正しいんだか!なんて言おうものなら、通りすがりの我が麗しの妹殿に「歳変わらんやろ。お兄ちゃんがジジ臭いだけやで」なんて、返される。おっ、ツッコミの腕上がったんとちゃうか?昨日の M-1見た?なんて、なんて、言いながら、さっきの礼儀正しい若者様の後ろ姿を見やる。片手に釣り道具とクーラーボックス。もう道具を揃えたのかと感心していると、若者様はくるりと振り返った。
「地図…貸してくれませんか?」
お安い御用やで!にかっ!毎度おおきに、スマイル0円です!
ドタバタとリビングの奥から付箋だらけのくしゃくしゃの旅行雑誌と地図をひっぱり出してくる。
あまりの騒がしさ「さっさといけ」と妹殿から蹴り出されたのはつい数十分前の話。
「オニーサンにも妹おる言うてたよな」
「ええ。」
「どこの世界の妹もあんなもんか?」
「さすがに蹴られたりはしないですけど…反抗期最高潮ならしばらく数年は『ジジイ』呼びされますね。湿布の数も増えますし。」
「なっはっは!!!そりゃえらいこっちゃやなー!」
「…」
ぱちくり。ぱちぱちぱち。瞬き多くない?
オニーサンはスカした端正な顔立ちにそぐわぬ少々おぼこい表情を見せた。
これは我が民宿に来て最初に振る舞った料理を食べた瞬間の顔つきを思い出させる。
もぐ、ぱちぱち、もぐ…美味しい。
この国に来て初めて口にした料理だったらしいそれは、親父が仕事帰りに釣ってきた魚をオレとお袋が丹精込めて調理したものだった。お袋がカレイの唐揚げを作っている間に、オレがタコやイカを捌いて刺身に。生だこを鷲掴みにしたときだけオニーサンはぎょっとしとった。ああ、外国の方は生で食べへん言うとったな、なんて、テレビから得た知識が役立つ。
「なんや?どした?」
「…いえ、なんでも…。同じような笑い方をするんだなと…」
「え?何何?誰誰誰と??」
「あ、引いてる」
「あっ!ほんまや!」
水中でぴくりと反応した釣竿の糸を慌てて巻き引く。ぐりぐるぐると、引き寄せると、小ぶりの魚が釣れた。マイワシか。うーむ。ほな、今日はどう調理したろか?
いやそれより、さっきの件がまだ解決してへんな。
ほくほくした顔で持ってきたバケツにマイワシ入れてるオニーサン。笑い方が同じ?一人旅で思い出す?さっきの流れ?
ピロリン!蝶ネクタイ型変成器を付けた見た目は子供頭脳は大人な小学一年生も驚く閃きが浮かんだ。
「わかった!妹ちゃんと似てんのか?」
「へ?ああ、さっきの…違いますよ」
「ええ…ほな誰よ〜〜…あー、何?コレか?」
「?」
左手で小指を立てるとオニーサンはこてんと小首を傾げる。ああしもた、これは我が国独特のジェスチャーやったな。うっかりジジイですまんの。同い年やけど。花の19歳、大学2年生や。
「彼女」
オニーサンの口から大量の唾が噴射されて、オレの顔面にぶち当たった。
プルゥーハァ!!
別に、解散済み某人気アイドルグループの曲の冒頭ではない。陽気なピアノもサックスの音も聞こえてこない。シェイクシェイク言よる場合ちゃうねん。ハックションハックションって風邪引くわ、こんな冷たい水道水頭から浴びたら。でもこの蒸し暑さにはちょうど良くて、思わず口からプルゥーハァするのはしゃーないんよ、オニーサン。我が国の民の大多数はこの曲知っとんねん。オニーサンは知らんかもしれんけどね!
「すみません…」
外の水道で頭から水を浴びたオレに、しゅんとしたオニーサンがふかふかタオルを差し出してくれる。猫ちゃんやったら耳としっぽが下に垂れてるみたいな顔しとるな。先程顔面にこのオニーサンの唾を全面的に浴びてしまったオレはオリジナルスマイルを見せつける。にかっ!
「いやー、かまへんよ!でもオニーサン、淡白そうに見えて意外とウブなんやな!」
「ウ… 忘れてもらっていいですか」
半袖パーカーのフード部分を頭から被り。オニーサンはぷいと視線を逸らした。なんやそれが面白くてオレはゲラゲラ笑ってしまう。
「…妹にデリカシーないってよく言われるだろ、アンタ」
「おっ?よう分かったな!なんや、ジャミルくんはエスパーか?」
「そんな魔法は使えない」
「なっはっは!そうかそうか!」
「はあ〜〜…」
さっきまでしょげてた耳としっぽは見つからない。お、猫被りはやめたんか?フードは脱がへんけど、一人旅を満喫している同い年の若者様は年相応の口調になり、オレの隣に、それはそれは大きなため息を吐いて座った。
近くの自販機で買ってきたのか、冷たいコーラ缶をオレに手渡して、プシュッと飲み口を開ける。
「ジャミルくん、よー気が効く言われるやろ」
オレが毎日コーラをストックしてんのを、民宿にやってきた2日目の旅人にはなかなか分かるまい。客人が開けられるような冷蔵庫には入れていない。とすると、最初のおもてなしの食事を取った時に、誰がなにを好んで食べて飲んでるのか、頭にインプットされてるんやろ。目がぱちくりと動いていたのはきっとそういう意味もある。
「まあな…。そういう仕事を、してた」
「職業柄ってやつか?」
「そんなところだな」
「そういやよー聞いてへんかったけど、4年制の学校卒業して?大学に入るまで間に旅行してんやっけ?」
「そう」
「なんや外国の事情は知らんけど、こっちで言う春休みみたいなもんか?」
「まあ、秋入学だから…サマーホリデーに近いな」
「ほ〜 休みが長いのは羨ましいっこっちゃな」
二ヶ月ぐらいあるんやろか?せやったらオレの夏休みとほぼ同じやな。あと1ヶ月はゆうに遊べる。
「何カ国ぐらい行った?」
「ここ含めて3つかな。1週間もしたら出発するが」
「えー、もっとおりぃよ。この国はなあ、北から南、東から西、人種も雰囲気も全然違うねんで」
「無宗教派が多いのは知ってる。他民族国家でよくもまあ統一が取れてるものだと感心したよ。その上、地理的に見てもそれほど大きくはない領土なのに、他国からの客を拒まずさらに発展しようとする姿勢には恐れ入った」
「なんやそこまで言われると照れるな!」
「アンタのことじゃない」
「辛辣〜!」
あちゃ〜!とジェスチャーをして見せるものの、ジャミルくんは涼しい顔してぐびっとコーラを飲んだ。気に入ったのか、ごくごくと喉が上下するのが見える
ああ、そうやった。まだ聞きたいことあんねん。
「彼女にもそんな態度しとんか?」
「…」
喉仏がピタリを動きを止め、切れ長の綺麗なおめめがじろりとオレを見やる。これ、ジャミルくんの言う魔法の世界ってやつやったらオレは石化してんで。
「訂正しておくが、彼女じゃない」
「エエ…ほな誰よ…。まさかジャミルくん、意外と女の子と遊んでるんか?」
まあ、360度どこを見たって女子受けしそうな見た目、神は何物与えるんや?と言わんばかりの綺麗なお顔を筆頭に、同い年である自分と比べると悲しくて悔しさで出る涙で川が作れるかもしれへん。そこはタコかウツボか人か猫かよーわからんもんが泳ぎそうな、川。
オレはこの季節、短パン、Tシャツorタンクトップ。頭は大学デビュー時から守り抜いてる金髪や。いまちょっと乾いてきて前髪は七三みたいになっとるけど。彼女いない歴2年。高校の卒業式にフラれた。
異国情緒溢れる肌色に、切れ長の目、小さく整った唇、綺麗な筋の通った鼻、シャープな輪郭、ほどほどに鍛えられた体つき、そしてなによりズルいのが黒の長髪である。いまは暑さのせいで雑にひとつのお団子結びなんてしているが、最初に民宿に来たときは丁寧な編み込みにひとつまとめで流していて遠目からじゃただのべっぴんな人や。
顔つきだけならイケメン!という感じなのに、髪のせいで一気に中性度が上がる。どっちにしろ女子はほっとかんやろうけど。
ふー、と、中性ボーイが口を開く。
「遊ぶ暇なんてないし、彼女なんていない」
「あー、ほな、好きな子ってやつか?」
「そんなわけあるか!!!」
ギニャ!スタタタッ!
突然の大声に、近くを歩いていた野良猫がびっくりして走り去った。可哀想に。
ジャミルくんはまたコーラに口つけた。ぐびぐびぐび。プハッ!口元ゴシゴシ!すげー音。
「誰があんな能天気で水出すしか能力のないアホでまぬけで鈍感で自分1人じゃ飯も食えないうえに従者に裏切られてもヘラヘラ笑ってあげくにその裏切り者の願いを叶えるべく暇を出すだの吐かすようなボンボンを好きになるんだよ冗談も大概にしろ」
「ジャ、ジャミルくん?」
「デリカシーはないわ、こっちの都合は無視するわ…今まで俺がどれだけ苦労してきたと思ってんだ。なーにが、みんな幸せでいられますように?だよ、反吐が出るわ。お前の基準で幸せ定義すんなボケ。俺を1人旅に行かせれば俺が幸せになるとでも思ってんのか?ああ確かに最初は楽しかったさ、今も楽しいさ。でも四六時中気になって仕方がない。今日は何を食べた?俺以外の飯食えないやつが何を食べるんだよ?朝は誰に起こされてんだ、俺以外の従者か?ターバンは誰が巻く?今まで散々世話してきた俺を押し除けてやれる従者がこの世にいるかよバーーカ!!」
「ステイや!ジャミルくん!」
バサバサバサ。オンギャーオンギャー。
電線に止まっていたカラス達は飛び去り、道ゆくベビーカーに乗せられた小さき命はギャン泣き。さすがにベビーカーの奥様には申し訳なくてすんませんすんません!と頭を下げる。ほら!ジャミルくんも頭さげーや!と、女子受けしそうなイケメン面に向かって頭を鷲掴んで下げさせるのは若干、おもろい。
ベビーカーが遠ざかるのを見て、しばらく、落ち着く。
「……好きな子の話じゃないんは、よー分かったわ」
「……」
「なんかよー分からん単語もでてきたな…ジューシャ?あとなんか途中で、結婚したのか…俺以外のやつと…みたいなこと言うとったな」
「……仕事の話だ」
サラリーマンの愚痴とはちょっと違うと思うで?
どうどう、と、さっきまでギャンギャン喚いていたイケメンを宥めてやる。好きな子でも、彼女でも、上司でもない。じゃあなに?
「…訂正する、幼馴染みの話だ」
「いや訂正多いな。やっぱり女の子の話やん」
「違う」
女の子じゃないからやっかいなんだよ、と付け足して、もう一度コーラを呷るがさっき飲み干してたん忘れてたみたいでバツの悪そうな顔をする。
あ。ピロリン。また閃く。そういえば、そういうドラマあったな。男性同士が美味しそうなご飯をふたりで食べるだけの。
「なに食べたか気になるんか?」
「…あー、あー、そうだよ。気になる。毎日、毎日だ。俺が作ってた。俺が作ったもの以外は食わないって約束させてた」
「ヒュー!なんやそれ!お熱いやんけ!同棲しとったんか?」
「ど…同棲ちゃうわ」
なんや童貞ちゃうわみたいな言い方して。
この旅人は2日目にしてオレの口調がうつってしもうたみたいで、オレの影響力の凄まじさを感じた。彼女はおらんけど。
3日目の朝。
朝食を食べて一旦部屋に戻ろうとする旅人を捕まえる。まだまだバカンスは始まったばかりやで?
にっと笑って旅行雑誌を広げてみる。旅人の目の色と態度が明らかに変わった。
「…森?」
「ちゃうわ。島や。」
民宿から車で10分走った先の船着場からは近隣の島にいける。中でも我が地元自慢の島にはそこにしかない、最高峰の現代建築技術を余すことなく使った、大きな美術館がある。
ぺらりとめくった記事にあるその案内ページに、旅人は「あ」と、反応を示す。
「この絵画…あ、この建築物…、屋敷にあったのと似てるな。」
「は?」
「ああやっぱり、作者も同じだ」
「え?」
「たしかこの絵画は保存が難しいんだ。こんな狭い国で一体どうやって…ああ、だから島に作ったのか。ここの人口は?」
「え?さあ〜… 小学校しかないからな。100人おったらええ方かも」
「なら、静かなところなんだな。この作者の芸術物は少しの足音や衝撃で駄目になるような材料で作られることで有名だ。だから屋敷の廊下に飾るときは来賓がある時だけと決めていて、魔法師を何人か集めて防衛魔法を慎重にかけておくんだ。俺も何度か呼ばれたことがある。しかし、この国に残っているのは医学魔法だけだろう?なんでこのレベルのモノが置いてあるのか不思議だ」
ジャミルくんはうーん、と、考えこむ。難しいことはよー分からんが、美術館をあえて小さな島に作る理由はなんとなく知っている。単純に、美術館を作るほどの土地の広さが、ビルディングが立ち並ぶ本島にはないのだ。
「オレは、この絵画がジャミルくんの家にあるほうが驚きやけどな…」
何度見たかわからない瞬きをしたあと、ジャミルくんはくすりと笑った。女子が喜びそうな絶妙なバランスの笑顔だ。
「まさか。俺の家にはないよ」
「じゃあ誰のお屋敷やねん」
「幼馴染み」
「え?!昨日言うとった子の?!なにそれ?!御令嬢?!あ、ちゃうかなに、どっかの御曹司か?!逆玉?玉の輿?」
「ぎゃくた…え?何?」
困惑するジャミルくんを他所にオレは興奮が止まらない。あ、ちょっと引いとんなコイツ。質の高い美術館に飾られるレベルの絵画が廊下にあるって何事やねん。ほんで、その飾り付けに呼ばれるジャミルくんの仕事ってなに?聞きたいことがたくさんある。どこから聞こうか?頭の中で整理する。ああそれより気になったことあった、あったわ。
「その子と連絡取ってるんか?」
なんでそんなことお前に教えなきゃいけないんだ、の、顔を見せられた。いやだって、何食べてるか四六時中気になるって言うてましたやん、オニーサン。オレは構わず、続ける。
「せっかく、お屋敷に飾ってるんと同じモン見に行くんやから、連絡取ったらいいやん」
「…行くと言った覚えはないぞ」
フン、と、なんでか意固地みたいな顔も見せる。旅行雑誌の記事見て、あんなワクワクした顔しといてよく言うわ、と少し呆れる。ふう、しゃーないの。目の前のオニーサンには恋のキューピットが必要みたいやな。するり、と、ポケットから現代の最先端文明機器を取り出す。
「なっ!?お前、いつのまに!」
わたわたと、服の両ポケットに手を突っ込み慌てるイケメンを見るんは、やっぱりおもろい。
「手ぐせの悪いハイエナめ…」
「ハイエナやのーて、人間様やわこちとら。ほーら、指紋をおくれ」
「返せ!誰がくれてやる…」
ティロン♪
『ジャミル、おはよう!此方はいい天気だ(太陽のマーク)ジャミルは今日は何処…』
「最悪だ…」
「ブッ…あはははははは!!」
幼馴染みくんとやらは、最高のタイミングでメッセージを送ってきた。オレはあまりに楽しくて、デリカシーのないお墨付きの笑い声を上げる。わなわなと震えるジャミルくんがオレの手から文明機器を掻っ攫った。親指を画面に当てて、すぐさまロック解除だ。素早くメッセージを確認して、フリック入力。
気になって覗き込もうとすると目元を片手でぐぎぎっと押さえつけられた。
おはよう、だなんてやり取り。毎日連絡してないと言うほうが無理があると言うものだ。ただジャミルくんはプライドが我が国イチのあの山より高そうなので、なにを食ったかまでは聞けてないかもしれない。どうせ淡白な返信でもしてるのだろう。だってフリック入力、一瞬で終わっとったし。
片手で顔面押さえつけられたまま、オレは尋ねる。
「なーなー、通話は?せえへんの?オレ、御曹司様と話してみたいわ〜」
身内にも知人にもそんなレベルの人間はいない。御曹司様が普段何食ってんのかも気になるし、そっちの国のことだって気になる。あわよくばお近付きに!という、単なる好奇心だ。
と、思ってたら片手が拳の形となって顔面に減り込んできた。
「どこの馬の骨だか分からん奴と、接触させる馬鹿がいるか」
その面は、妹がはじめての彼氏を連れてきたときの親父の顔と似ていた。
壁一面が白い。
床も。目の前にある階段も。階段の先にはなにやら神々しい銀色の球体が鎮座している。白い壁には天使の絵画がずらりと並んでいる。ここはおしゃべり厳禁なうえ、ヒールのお客様はお断り。つまり、足音ひとつ立てるのさえご法度なエリアらしい。天井を見上げると、白色ばかりで申し訳ないと思った神様のご慈悲か、綺麗な青が浮かんでいた。白に溶けそうなそれは、間違いなく空を表している。ああまるでここは、
「天国みたいだったな」
ぼそりと、ロコモコを食べていたジャミルくんが口を開いた。せやな!と明るく返すと、初めて訪れた美術館の余韻に浸っているのか、感慨深そうにゆっくりともぐもぐと、小ぶりなハンバーグと目玉焼きを食べていた。たしかソースはカレー味だったか。美術館の近くにあるこのカフェは、海辺にある見晴らしの良い場所で、ベランダ、バルコニー付き。もちろん先程行ったばかりの美術館の外観だって拝める。注文さえしてしまえば、客が少ないときはどの席に移動したって構わない。オレはタコライスをもぐもぐと頬張る。あと、テーブルにはコーラとココナッツラッシーが並ぶ。ジャミルくんもてっきりコーラを選ぶかと思いきや、栄養価が高いからな、とかなんとか言い訳じみたことを言いながらココナッツラッシーを選んでいた。誰に言い訳しとんねんという言葉を飲み込んだオレには我ながら拍手喝采や。
「すごいやろ?自慢やねん、あの美術館は。感動したやろ?」
「ああ」
素直にこくりと頷き、最後のひとくちを食べ切る。そうや!と、オレはにやりと笑う。
「その感動を〜、大好きなあの子に伝えたらどうや?」
「そうだな」
「おっ」
意外な反応にオレは少し驚いた。ここに来るまで頑なだった男が、何故か素直になっている。一度天国に足を踏み入れたせいか、浄化されたんか、憑物が落ちたみたいな顔して。ジャミルくんはご馳走様でしたをすると、ココナッツラッシーを片手に、バルコニーまで出た。外はまだ暑いけど、吹き抜けてくる潮風は気持ちが良い。あ〜!気になる!例の御曹司と通話をしようとしている様子が気になって、オレも急いでタコライスを食べ切る。ガツガツガツ。あっ!ちょっと器官に入ってもうた!コーラで慌てて流し込んでいると、ジャミルくんの声が潮風に乗って聞こえてきた。
「……そうか、問題ないんだな、食事は……」
『〜〜…!ーーー、!!』
「目を疑うほど、綺麗な場所だよ。初めて見た。熱砂の国にはあまりない文化だな。絵画?ああ、屋敷にあるのとは少し違ってた。いくつ出回ってるんだろうな。旦那様の耳に入れば、簡単に買い付けできるだろう」
『ーーーー、?』
「あるべき場所にあるから、価値がある…か」
お前はそう言う奴だったな。
バルコニーの手すりを背に、空を見上げて、ぼそり。オレはコーラ片手に隣につき、によによと、ジャミルくんを見る。
なんや、会いたい、みたいな顔してからに。って思って見てたら、ジャミルくんはムスッとしてた。なんや、素直な時間はこれで終わりか?
『ーー、ーー?』
「いや、うん、なんでもない…輩に絡まれててな…」
「誰が輩やねん」
コーラをぐびっと。ジャミルくんはスマホを下げて、オレをじろっと睨む。
「ちょっと黙ってろ」
「そんなに御曹司くんの声聞かれたくないんか?」
あー、やだねえ!独占欲強い男はー!
大声を出してみると、スマホからなにやらこしょこしょした声が聞こえてくる。ジャミルくんは再びスマホを耳に当てて、なんでもない、と答えている。
「もう切るぞ。お前も忙しいだろ…は?」
ピキッ。こめかみに、ムカつきマークがうっすら浮かぶ。
「オクタヴィネルの連中とは関わるなってあれほど言ったろ!は?新メニューの開発に?毒見役は誰が…おい、まて、誰が誰を信用してるって?はあ?クッソ…」
『ーー、??ーーー』
「駄目だ。俺が信用できない。早めに此処を発つ」
『ーーー!ーーーー、』
電話口から汗のマークが飛んでるみたい。さっきまでの甘い声色が一気に急降下して、轟くような声色に変わる。ジャミルくんはブチっと通話を終了させると、ついてたストローを無視してココナッツラッシーを一気に飲み干した。
あ〜、しもうた!
頭を掻き毟る。
オレはこう見えて計画的にお勉強の予定を立てているタイプなんやが、同い年の旅人と遊ぶのがここ数日、どうも楽しすぎてお勉強ノルマをひとつクリアできていなかった。
腐っても魔法医学部2年生。将来は小さな島で診療所開業。細々と暮らしたい。リビングの机に向かって、書籍を広げ、あーだこーだと騒ぐ。また妹殿に舌打ちされた。おにーちゃんは悲しい。
机に突っ伏してると、トットッ。客人用の部屋の階段から足音が聞こえた。
ばっと、顔を上げると、ゲッとした顔のイケメン。
「おはよーございます」
「…おはよう。何やってるんだ」
「お勉強や、お勉強!サボりすぎたんよなあ〜」
ほれ!と、ノートと参考書を広げてみる。ジャミルくんって頭ええんやろうけど、さすがにこれは専門外やろ?と、ちょっと意地悪な気持ちを見せてみる。切れ長の目が左から右へ。書かれてある文字を流し見ている。
「魔法医学か… 性質を変えて浄化させる?」
「せや!まあ、例えば、薬ってどんなもんでも少量の毒が入ってるやろ?まずはそれを専用の試験管に入れて分解して視覚魔法をかけてやると毒だけ色がついて浮かび上がる。色、性質ごとに仕分けて、浄化魔法をかけてどこまで洗浄されるか調べるんや。まあ今のところ不純物を完全に浄化させるような高等魔法は発見されてないんやけど、オレの大学の院生と教授のプロジェクトチームが研究しとる最中や。いまは薬だけの話やけど、上手くいけば近い将来、数年以内かな。人体にも応用することが可能や。」
「それは…つまり、体内に入った毒も浄化できるのか?」
「何年先になるかは分からんけど、今の我が国の技術研究ならできんことはないやろな」
「長年蓄積された毒であっても?」
「せやな。高等魔法が使えるお医者様なら、多少複雑にはなるが取り除くことはできる。…なんや、ジャミルくん、食いつきええな」
「4年制の学校に通っていたと言っていただろう。そこで毒薬を専門として作る授業があったんだ」
「げえっ。また難儀な…まあでも、多少の毒も必要ではあるけど…」
「…必要な毒か…」
「とゆーわけで、今日はお勉強のため、一緒にお出かけできません!あしからず!」
「心配するな、全く気にしてないから。今日は土産を物色して、明日発つ」
「ええっ!?明日?!1週間ぐらいおる言うてたやん!」
「急な予定変更は旅のお決まりだろう?じゃあな」
フッ、と笑い、気ままな旅人は出かけて行った。オレが前日に渡したおすすめお土産スポット巡りと書かれた地図を手にして。
旅立ちの日。
お世話になりました。
両手にぎょーさんの手土産抱えたジャミルくんは、オレのお袋、親父、妹にぺこりとお辞儀をした。イケメンがいなくなるっちゅーことで、お袋と妹なんかはな
んとも寂しそうな顔を見せていたが、困ったように微笑むジャミルくんを前に、また、ぽうと頬を赤らめていた。女子受けするって徳があってええの、と、親父とオレの男性組は内心舌打ちをする。そりゃあ、同性としてはおもんないっちゅーもんや。
ぶーすか拗ねていると、ジャミルくんは懐から、これ。と、紙切れを手渡してきた。
「なんや?連絡先?なんやー、ジャミルくんも案外可愛いとこあるやん!」
「別に他意はない。ただ、これから繋がっておくには悪い相手ではないと思ったからだ」
「なんやねんそれ〜」
ジャミルくんのお家事情は結局あんまりよー分からんかった。短い間やったけどオレのことはなんとなーく、少し信用してくれたみたいなんは分かる。
「まー、いつかジャミルくんにも会いにいくわ!そんときは御曹司くんも呼んでや!」
「誰が呼ぶか、バーカ」
最後まで、辛辣なままの旅人は、舌をべえっと出して、片手をひらりと上げると祖国へと帰って行った。
__と、まあ、ここまでが、オレが19歳の時の話や。
小さな手に鼻を掴まれて、ふがっと、うたた寝から目が覚める。目の前の可愛い可愛い天使は、オレと目が合うとふんわりと笑った。
「おでんわ、きたって、ママが」
「おでんわ?患者か?まだ診察時間ちゃうぞー」
「しんしゃつ、じゅかん」
「あ〜まだいえんのか〜」
「きゃーっ!」
抱き上げてその柔肌にぐりぐりと頬をすり寄せると天使はキャッキャと笑う。嫁に出したくない。まだ見ぬ未来の旦那様に嫉妬すら覚える。まだ5歳やぞ。
リビングのソファーからよいしょと起き上がり、あなた、と呼ぶ奥さんの元へ。スマホが手渡された。着信あり。市外局番は国際電話番号だ。留守電も入ってる。登録された番号だ。ん?と、小首を傾げながら、再生ボタン。
『もう、忘れているかもしれないが…』
約10年前、家族でもてなしたあの若き旅人は当たり前だがオレと同じように歳を取っていた。
家族で細々と営んでいた民宿。いまは妹が継いでくれている。外国からの客人なんて珍しいものだから、忘れるはずはなかった。ただオレも忙しく最初は連絡のやりとりしていたが、徐々に薄れて行って。気がつけばオレは無事医者に。勤務医を経て、診療所所長、妻子あり。そんなオレに連絡するって、何事やとは思う。
『報酬は…そうだな、3人家族が60年は暮らせる額だ』
ゲッ、と顔を歪める。こいつ、オレの素性完全に調べ上げとんな。敵に回したら怖い、と、脳裏に刷り込まれるには十分や。
そして最後に、
『診療所は明日からサマーホリデー、いや、"オボンヤスミ"だろ?チケットの手配も済ませてある。明日、空港で、名前と行先だけ伝えて、プライベートジェット乗り場まで来い。あとは魔法ワープができる空港を経由する。乗り継ぎは1度、所用時間は24時間。頼んだぞ』
ブツッ。
なんとも自分勝手な言い分である。オレのオボンは明日から家族でサマーバケーションだったんだよ。どうしてくれる?物わかりのいい出来すぎた奥さんは仕事なら仕方ないと言う、娘はさすがにギャン泣き。覚えてろよ、と、今の顔は知らないが昔の旅人に向けて舌打ち。60年分ぐらいじゃ足りひんねん。
とりあえず、いまのままでは現状がわからん。電話をかけ直し、やいやい言いながらボストンバックにあらゆる器具と知識を詰め込む。
ただの田舎の町医者に、他国の大富豪御曹司の側近様に役立てることなんぞあるか?聞いてみると、側近様は、オレが院生の時に発表した論文を読んだと言った。
どこで手に入れたんとか、まあ、言いたいことも聞きたいことも、まだ山ほどあるが、オレは空港に向かうことにした。
一度の乗り継ぎを経て降り立った大地は猛暑に次ぐ猛暑。
にも関わらず、人々は陽気。
噴水の水を浴び、踊る子供達に、露店が並ぶ観光地。まー、帰りにお土産でも買うて帰ろうか。
じりじりと照りつける太陽を浴びながら突っ立っていると、黒塗りベンツの姿がお目見え。運転席から現れた運転手は後部座席のドアを開いてぺこりと、お待ちしておりました、さあどうぞ。
オレは早く車内の冷風を浴びたくてするりと座り込む。VIP待遇かなんか知らんが、一刻を争うんと違うんか?運転手のあまりに優雅な所作に小首を傾げるのであった。
着いた先は宮殿?テレビでしか見たことのないような大豪邸。もはや入り口がどこかも分からんくて、目の前の人に促されるまま歩くだけ。うわ、廊下は全部大理石。壁に天使の絵画はないが潔癖を思わせるその空間はあの日見た美術館のおしゃべり禁止ゾーンで間違いない。道ゆく人は足音ドタバタ。
キイ、と重厚そうな扉が内側から開かれ、中からようやく見知った顔がお目見えする。
「まー!男前にならはって!元気しとったか?」
「いま俺のことは、いいから。ついてこい」
再会にハグをするわけでもなくぶっきらぼうに答える男は、昔のあの長かった黒の艶髪をすこし切ったようだ。前髪の右側だけ垂らして、まあなんというか、相変わらず女性が卒倒するような色っぽい目つきをしている。一体何人の女性を罪深く落としてきたのかは知らんが。
男に付いていくとまたもや重厚な扉、扉、扉。開くたびに部屋の中の人の数が減る。ダンジョンやったらラスボス前のシーン。
熱砂の国の大富豪の事情は国際ニュースでしか知る由はないが、なるほど、御曹司くんに会うにはなかなか気軽に、とは言えないようだ。外も中もガッチガチの警備で、装備なしのただの異国の町医者が侵入していい領域は優に超えている。目の前の男がいなければこんなに簡単に辿り着けることはないだろう。いやはや不思議なご縁だ。
最後の扉が開くと、部屋の奥の豪華絢爛な装飾が施されている寝床に、昏睡状態の御曹司様がいた。
「10年以上前にも同じことがあったんだ。あのときは2週間…いまは、これで、3週間だ」
「状況は?」
「昔に比べると、時折目を覚ましては浅い呼吸をする。意識はあるようだが、声までは出せない。おそらく声帯になんらかの制限がかかっている。一応呼吸器系の魔法はかけてはいるが…」
「栄養剤はどうやって入れてんや。動けへんのやろ」
「ああ、それも魔法で調合した物を口から…水で流し込んで入れている」
「入れ方は?それも魔法で、か」
「ああ」
「ほなちょっと失礼するで」
ボストンバックから、小型のライト、ピンセット。
すうすう眠る御曹司くんの目下に親指を乗せ、人差し指で瞳を開く。綺麗な目玉だが、この紅は。
「御曹司くんって、生まれた時からこの色してんのか?」
「そう、だが…」
「そうか。せやったら、今まで苦労してきたんやな。…なあジャミルくん。昔話したことあるやろ。薬には少量の毒があるって」
「…ああ。」
「薬に視覚魔法をかけて毒を検知した時に出てくる色は様々や。蓄積された分、色は濃くなる。濃度が薄ければ透明、濃ければ赤。御曹司くんはその上やな。元々の赤色に、黒が混じってきよる。あとは…うん、黄色やな。相当な種類の毒が蓄積されとるみたいや」
「ッ、」
カチッとライトを閉じて、胸ポケットにしまうと、ヒュッ、と息を飲む音がした。なんや、心当たりでもあるんか?と、視線を送ると、周囲に控えとる人たちの顔は青ざめていた。
そういやジャミルくんが昔、毒味がどうのこうの言うてたな。この間の国際ニュースは、夕焼けの草原の国、第二王子が最年少外務大臣に任命されたテロップが流れて、熱砂の国で行方不明だった女児が見つかったニュースが次に流れる。プライバシー配慮があまりないのか、スポンサーの関係上か、女児は大富豪の初孫だと言う情報まで流れた。怪我もなく無事に見つかったからよかったものの、同じ年頃の娘がいる立場のオレからすればなんときな臭い国なのかと思ったもんや。そこで思い出したのが毒味云々の話と、今目の前にいる黒の混じった瞳を宿しつつある若き御曹司、まあ、この情報だけでお国事情はなんとなく察することはできる。ジャミルくんはハッキリとは言わへんかったけど、俺の察する能力だけは買ってくれとるみたいやな。
青ざめている人たちを他所に、ジャミルくんがハッとする。ん?と、オレも覗き込むと、御曹司くんが唇を薄ら開いて酸素を取り入れているのが分かった。
それは徐々に苦しげな呼吸に変わる。
「なんでも魔法に頼るのはな、よくないねん」
苦しそうに息を吐く御曹司くんに向かって言ったものではない。周囲に向けてだ。
先人たちのアナログ療法に、時代に合わせてプラスされていくのが魔法医学療法だ。これを発展医学と言う。なにごとも、メリットだけの治療法なんてない。できる範囲は科学の力を使う。我が国はそうやって生きてきたおかげで世界一位の長寿国にまでなったのだ。
こんな点滴ひとつ、魔法で補おうとするものではない。まずはその魔法を解除して、手持ちのボストンバッグから祖国から持ち出してきた袋のボトルと、チューブをセッティングしていると周囲が騒つく。なんや、見たことないんか?と、少し威嚇してやる。人間、初めて目にするものを前に怖気つくものなのは分かるが、そうじゃない。そんな得体の知れないものを、大事な若き御曹司様に、ああ。なんておぞましい!喋りはせんが、視線が煩いねん。
注射針も準備完了。
同い年と聞いとったけど、それにしては細っこい腕を手に取り、血管を探り当てる。
「ちょっと我慢してな。チクッとするで」
「は、は、はぁ、あっ、」
「はい、終わり。これでちょっとは楽になるから心配すんな」
「はあ、は、ふぅ、はあ」
「そう、そう。深呼吸。」
「ふ、う…」
「よーし、ええ子や」
御曹司くんの口から、やがて正常な呼吸音。規則正しく上下し始めた胸元。
彼の側近くんは、それを確かめてから周囲の人払いを始めた。なんや、久しぶりの再会でも、寝食を共にした相手でも、御曹司くんが安全だと分かるまでは信用もされんってか?
オレを呼びつけて置いて、相変わらず辛辣な男やで。
「さーてと、ほなら、毒解除していこか。当然、手伝ってくれるよなあ?助手くん」
パシッと投げたゴム手を片手で受け取った男は、数年前に比べると背丈も伸びて、顔もまた一層男前になっていた。
「誰が助手だ」
男は口角を上げた。
あの頃のオレはまだ医者にもなってないし、高等魔法なんて習得してやいなかった。何年研究しても濁った毒を完全に洗浄する高等魔法は作ることができなかった。でも誰しもができへん難解なモノこそ、主人公気質が刺激されると言う物だ。簡単にラスボス倒せたらおもんないやろ?院生に上がった年、オレは研究プロジェクトに参加した。そうして卒業する年には、見事、体内にも応用できる高等魔法の証明を果たしたのだ。論文をまとめることと、そのあとの大病院からの引き抜きのスカウトを断るほうが大変やった。経験やからと、数年は勤務医暮らしをしていたが、オレは小さな島で研究を繰り返す傍ら診療所で細々とやっていくほうが性に合ってた。たまに民宿の手伝いで魚捌いて飯を鱈腹食べて客人をもてなす。
のんびりとした人生が合ってんねん。
体内に洗浄魔法と相互作用のある液状の薬を点滴を通して流し込み、外側から訓練された魔法医師にのみ許される高等魔法をかけてその薬に吸収させる。途中、患者は大量の汗をかいたり、稀だが副作用を起こすこともある。こちらは治療に専念するため、助手は最低1人は必要なんや。
「そもそもや。お抱えの医者はなにしてんねん。ここまで蓄積を放置できるもんなんか」
頭の先から足の先まで、まあ随分と濁っている。さすがのオレも少しくらりとよろけるぐらい。優秀な助手が口を開いた。
「買収されていた。治療も満足にされていない。でもこいつは多少のことならと我慢する性格が災いしてな…気づけばいつもこうだ」
買収て。こいつて。
「それにこの国の魔法医学はアンタの国とは比べられないほどに程度が低い。俺は世界をこの目で見るまで知らなかったよ」
諦めたように笑う目元が、なんとも寂しい色をしとる。
「買収されとったって外部に優秀な医者はぎょーさんおるやろ。それを連れてきたら…」
「それがアンタなんだよ」
「は?こんなしがない町医者風情が?」
「だからだよ。この国で信用できる人間なんて…」
「え?」
「カハッ…!
「カリム!」
「よっしゃ、出てきおったな!」
御曹司くんの口からこぽりと出てきた濁った液体の塊をピンセットでひょいと摘む。まー、すごい泥色や。あと何回出てくるかな。出てくるたびにダストボックスへ。おかえりはあちらや。
「だいぶ顔色がようなった。たっぷり寝て、ご飯食べたらあとは日にち薬や。毒は完全に取り除けたからもう心配すんなや。おつかれさん」
すう、と、眠る御曹司くんの額の汗を拭ってやる助手くんに声をかける。助手・ジャミルくんは、安心したような柔らかな表情を見せた。そや、それが何年も前に見たおぼこい顔や。
オレはひょいとひょいと、器具を片して、ボストンバックの中を整理していく。
「…すまない、助かった」
「お、なんや?素直になったか?」
「ありがとう」
「ジャミルくんがオレに感謝を述べる日が来るなんて!明日は大雨か?」
「ちょうどいいかもな。ここ数週間、全く降っていないから」
「ひえ〜… 熱砂、なめとったわ…」
地獄やん… おかしいな、水道事業に関しては世界屈指のレベルって聞いとったけど。あーあ。はよ帰って、クーラーの効いた我が家で、愛おしの家族とアイスでも食べたいもんやわ。
帰りの白塗りベンツの運転は、ジャミルくん直々。安全第一で几帳面なそれは、オレをうたた寝させるのに十分やった。
ついたぞ、の声で、降りて、空港までのお見送り付き。
「次は元気な御曹司くんに会いにくるわ。まともに話せてへんし、経過も気になる。まあ他にも色々と気になることもあるけど」
なっはっは〜と笑って見せるとジャミルくんにも笑みが溢れた。
「報酬が60年分じゃ足りないかもしれないから、次は俺があいつを起こして連れて行くよ」
「いやまって…それ、国際ニュースになるやつやない?大丈夫?」
「大丈夫だろ」
べっと、舌を出して見せるおぼこい顔は別れ際に見る定番になりそうだなとぼんやり思いつつ。ほなさいなら!と片手を上げて飛び立った。
______
―いや、なってるやん…
家族団欒のご飯どき。
白髪の増えたお袋と親父と、妹と、奥さん、娘。今日も釣れたてお魚のイキのいいお刺身と地酒を手に。
視線の先の買い換えたばかりの何十インチのテレビは、熱砂の国の有名アパレル産業を主に手がけるトップ、CEOを始めとした各国の世界経済の中心を担う民間企業のお貴族様たちが経済に関する意見交換会で凱旋訪問。我が国の首相と晩餐会。のニュースを流す。
そこでチラリと一瞬映ったのは数ヶ月前に極秘に助けた御曹司様とその側近様。
「く、くる…!」
奴らが…!
「あなた、昨日のホラー映画まだ引きずってんの?」
「いや、いや、いやいやいや…!ホラーより怖いかもしれへんで…」
えっぐい黄金のピアスにリングにネックレスにターバンに?疎いオレでもわかるほど超高額なそれに、頭の先から爪先までキラキラしたオーラ。装飾品なんてめちゃくちゃゴテゴテしてんのに、顔立ちのせいか下品さは一切ない。大富豪の御曹司というよりどちらかというと芸能人に近いかもしれん。
熱砂の国は美人が多いとはよく聞くが、男性も負けじと美丈夫が多い。と言っても、やはりこの装飾品よ。この小さな島ではおおよそ似つかわしくない。近所のばーちゃん見たら腰抜かすで。
これは側近様のミスやな。TPOっちゅーのをわきまえないかんよ。
どんな出立で来られても困るからと船着場まで来てみると、まあ当たり前のようにプライベートクルージング。そもそもうちの島にそんなもん停められるとこあったか?とおもう。結論としてはあった。最近、観光業に力を入れている。主にあの美術館を軸に、だ。
「あー、えーと、はじめまして?」
頭をぼりぼり掻きながら手を差し出すと、そんな汚ねえ手を差し出してくんなと、側近様がこちらが石化するような目つきで睨んでるので引っ込めた。
「初めまして!挨拶が遅れてしまって、本当にすまない。命の恩人だというのに、ろくに謝礼も渡せずに…」
「いやいやいや、謝礼ならもろてんで。そっちの蛇…ヒッ!ジャミル様に!」
「ジャミルに?」
知らんかったんか、こてん?と小首を傾げて同い年とは思えへんほどの、かわいらしい声音でその名を呼ぶと、御曹司くんと目が合ったジャミル様はオレに向けた石化する目線じゃなく、ふんわりにっこり、なんともまあ、ぺろぺろする餌貰ったときの黒猫みたいな瞳に戻る。さっきの蛇は幻覚か。幻覚やな。よし、解散。
「さすがジャミルだな!仕事が早いじゃないか!」
「お褒めに預かり光栄です」
「ジャミル〜。堅苦しいのはナシにしようぜ!今日は完全プライベートだ!」
「はあ…まったくお前はこれだから…」
「だからこうして2人きりで来たんだろ?その…せっかくの久しぶり、なんだしさ…」
キラキラキラキラ…
ま、まぶし〜!なんやこれ。オレ視界に入ってる?入ってないよね。
オレの平凡な国産車の後部座席に、麗しの貴族2名様乗車。狭いことをいいことに、イチャつくなよ。
「アンタら、オレの家族の前でそーゆうのすんなよ頼むから…」
「心配しなくても宿は取ってある。せっかくの"オボンヤスミ"を台無しにしてしまった償いをしたらさっさと帰るさ」
ジャミルくんは、流れる景色を少し窮屈そうにしながら窓から眺める。
「楽しみだなー!なあ、娘がいるんだろ?何歳だ?」
「5歳だよ。もうすぐ6歳」
「そうか!じゃあ俺の子と同じくらいだな!今日は色々と遊び道具も持ってきてて…あ、俺の子、アーティカっていうんだけど、通話するのすごく楽しみにしてるんだ!」
「そりゃいいな。この島に同級生がいないから、うちの子も喜ぶわ。」
しかも女の子だなんて知ったらもっと喜ぶやろな。お友達になれるとええな。
とか思ってたけど。
貴族階級2名様を玄関で出迎えたうちの天使の様子がおかしい。みるみるうちに頬が桃色に染まり、オレの後ろにもじもじしながら隠れはじめたことで察する。
対象は蛇か、御曹司くんか。チラチラ…チロリ…サッ!あ、御曹司くん。
御曹司くんは、娘の背丈に合わせて、腰をかがめて、目線を合わせて、なんとも優しそうな瞳で。
「はじめまして?」
娘のまんまるとした頬がぽっと、さらに赤く染まったのが分かった。
「許さへんでーー!」
娘こと天使を抱き上げてシャー!と御曹司野郎に、威嚇する。
「どこの馬の骨か分からん奴に娘はやらんぞ!!」
「アンタより素性は確かだけどな」
「蛇は黙っといてくれるか!」
プリンス☆メーカー
画面には、パステルピンクの背景に、白く縁取りされた文字が浮かんでいた。
インストールした覚えのないゲームタイトルは、おそらくつい先程まで俺の部屋で勝手に休憩していた妹の仕業だ。
「有料ゲームじゃないだろうな…」
昨今、親に黙って課金ゲームをする子供が続出しているらしい。親のカードを使い、親の居ぬ間に。
妹に限ってそれはないだろうが、とりあえず、課金ゲームじゃないかだけのチェックだけしておくか。
コントローラーを持ち、ハートマークのアイコンを移動させる。
『GAME START!』
「あっ!」
しまった、と思ったころにはもう遅い。STARTの上にあるハートマークがキラキラと光った。〇ボタンを押してしまったらしい。
『よう!』
一瞬暗くなった画面から、ゆっくり浮かび上がってくる絵面。白髪に、褐色の肌、紅い瞳の男は、にこりと笑う。
『お前がオレの従者なのか?今日からよろしくな!』
「じゅ…従者…」
この俺が。
一体なんのゲームなんだ、妹はなにやってんだ。などの言葉を飲み込む。1人で画面に向かって喋りかけるなんてことできやしない。
『なにをすればいい?お前が選んでくれ!』
【チュートリアルを開始しますか?】
画面の端には様々なアイコンが並ぶ。食事のマークに、勉強マーク、ハート…は、体力ゲージか。どうやらこれは育成ゲームらしい。俺はこいつの従者として、寝食を整え、おまけに教育まで施さなくてはならない。一応シナリオもありそうだ。
いわゆるテキストゲーム。普段は決してやらない部類のゲームだが…
(まあ、暇つぶしにはいいかもな)
対して頭も使わないし、RPGやカードゲームのように戦略も考える必要がない。
『そういえば名前、言うの忘れてたな!オレはカリム・アルアジーム。アジーム王国の王子なんだ!』
【カリムを立派な国王に育てましょう】
『お前の本当の名前も、教えてくれ!』
【名前を入力してください】
『ナジュ、って言うんだな!ナジュ、よろしくな!』
ただの成り行きと暇つぶしと、ほんの少しの興味によって、俺はこのゲームをプレイすることにした。
別に言い訳じゃない。
***
『ナジュ…今日は遅かったな。オレ、すごく待ってたんだ…』
【体力ゲージを確認してください】
たった1日だ。1日、ログインしなかっただけで、カリムの体力ゲージは0に近い数値を出していた。そもそも、気まぐれに始めただけのゲームだ。普段の俺はそんなに暇じゃない。が、青白い顔をして、いまにも倒れそうな様子のカリムが気になった。
【一日の様子を確認してください】
メモ帳のようなアイコンを押すと、ログインをしていない間に起こったことが映像として流れる。チープな造りをしているゲームだと思っていたが、映像はよくできていた。
『さあ、カリム様。たんと召し上がれ』
『お、おうっ』
ナジュ以外の従者たちが作った料理がテーブルに並べられていく。カリムはどこか居心地の悪そうな顔をしていた。
ナイフで肉を切り、フォークで口元に運び…一口食べたカリムの手からフォークが滑り落ちる。
『うっ…!』
両手で口元を抑えて、その場に倒れ込んでしまった。
【カリムは、従者に毒を盛られてしまいました】
「毒だと・・・?」
身内も同然の従者に毒を盛られる理由がどこにあるのか。
【毒を持った従者の手がかりを見つけましょう】
最初から仕組まれたルートなのかは分からないが、犯人捜しが始まる。カリムはどうやら俺を酷く信頼しているらしい。王族ゆえのお家騒動や、派閥争いでもあるのなら、親族による命令で毒を持った従者がいる可能性は高い。
1人1人にアイコンを翳す。
カリムが食事を口にする直前に声を掛けた従者の懐から、小さな小瓶が落ちた。この中に、毒が入っていたようだ。すぐさま問題解決。
【カリムに食事を作りましょう】
料理のアイコンを押す。鍋を選択して、食材は米と野菜と調味料で出来上がる。
焼き飯のような見た目のそれを、カリムは口いっぱいに頬張った。
『すっげー、美味い!やっぱりオレ、ナジュの料理が大好きだ!明日も作ってくれないか?』
【→わかった・いやだ】
『ありがとう!…ナジュ!』
***
たかがゲームのキャラが気になるなんておかしい話だが、今日も俺は大学の授業が終わり次第帰路についた。
まだ家族が帰って来ていないことを確認して、部屋にこもり、ゲーム本体の電源を入れる。
こんな感覚、子供のころ以来だ。
「ん?」
いつもなら、電源を入れてすぐにゲームタイトルが浮かび上がるはずが、今日は画面が暗い。
コントローラのスタートやオプションボタンを押してみるが、反応がない。
(壊れたか?)
ゲームソフト自体はデータ上にしかないので、引っ張り出して修理するわけにもいかない。俺は少し苛立った。
たかがゲームだ。気にしてる自分がおかしいだけ。そんなの分かってるけど。
(1日ログインしなかっただけであんな死にそうな顔をするくせに、いざとなったら電源すら入らない。これがゲームでよかった。こんな奴、近くにいたら、最悪だ)
コントローラーを投げ出し、ベッドに寝転がり、天井を見る。・・・アホらしい。
少し休憩でもして講義の参考本でも読んで復習するか、と一瞬瞼を落とした瞬間。
『「ぉわっ!!」』
「!?」
ベッドが何かの重みで軋む。隣には人肌の温かい何か…というより、人だ。
大声を出した正体。人間が、そこに居た。
『ナジュー!会いたかったぜ!』
がばり、と起き上がった相手はゲームの中のカリムだ。抱き着かれ、意味が分からず思考が止まる。
画面の中から飛び出してきた???そんなことあり得るのか???
「オレ、ナジュに会いたくって…ずっと、そう思ってたらここまで来ちまった!」
いらいらと、ふわふわが入り混じる。そんなことあり得るわけがないのに。
なのに、カリムのふわふわと纏った空気には思い描いていたそのもので、リアルな状況に納得せざるを得なかった。カリムの着ている衣装から取扱説明書と書かれた紙切れが一枚落ちてくる。
【カリムの願いが魔法のランプによって叶いました。以下注意事項】
「…魔法のランプ?」
【カリムはプリンス☆メーカーのキャラクターです。”現実”世界の食物は与えないでください。】
【プレイヤー以外の接触は禁止しています】
それから俺とカリムの奇妙な生活が始まった。
***
「おかえり!」
「…ただいま」
今日も一日、帰宅して部屋に戻ると、カリムは狭い部屋の中で俺を出迎える。
”現実”側にやってきたカリムは俺の部屋で一日のほとんどを過ごす。画面の中と違い、食事を作って与える必要もない。
…が。おとなしく、家主の俺が帰宅するまで待っている。一国の王子というより、こちらとしてはまるで白い毛並みの…ペットでも飼っている気分だ。
「なんだよ」
「な、なんでもないぜ!」
帰宅途中に寄ったコンビニで買った菓子の袋を開けると、カリムはもの珍しそうにそわそわと覗き込んでくる。一国の王子という設定らしく、こんなもの見たこともないんだろうな。
「お前は食べられないんだろう」
「そうだけど…なあ、どんな味がするんだ?それ!」
「どんな味って…じゃがいもを薄くスライスして、大量の油で揚げて、塩をまぶした味だよ」
「へえ!すげー、変わってるな!じゃがいもなら、てっきり、甘いものかと思ってたぜ!」
「甘い…ああ、そういう使い方もあるな。クリームを混ぜて焼くとか…」
「あ、それなら食べたことあるな!ナジュが作ってくれたもんな~美味しかったぜ!」
画面の中での出来事を思い出しているのか、ふにゃりとカリムは笑う。
あ、かわいい。
なんて、思った日にはおしまいだ。
***
今日はバイトが長引いてしまった。すっかり日も暮れている。
玄関扉を勢いよくあけて、廊下を渡り、冷蔵庫の中を漁る。炭酸水のペットボトルを取って、食器棚からコップも取りだす。
リュックの中にはバイト先の店でまかないとしてもらってきた肉と野菜の炒め物。そこへ、適当にスパイスを絡めて炒める。
皿に盛れば完成だ。こういう適当でシンプルなのが一番美味かったりする。
「おい、カリムー」
今日は何の話でもしようかと、いつものように自室の扉を開けると部屋の中にカリムが居ない。
「…は?」
テーブルに皿を置き、辺りを見回す。布団の中にもいない。慌ててテレビモニターの電源を押すと、ゲームは何事もなかったように起動された。
【さいしょから →つづきから セーブデータをみる】
【!つづきからを選択できません。さいしょからはじめてください!】
「…ッ!」
舌打ちをして、説明書を読み漁る。こっちの世界のものは食べさせてない。マニュアル通りにやったはずだ。
何も間違えていないはずだ。なのにどうして。
『…ナジュ、』
タイトル画面から音が聞こえる。
「カリムか!?おい、お前、勝手に元に…」
『オレはもっと触れたいな』
「…カリム?」
『綺麗だな、大好きだぜ』
会話はできない。コントローラーのどこを押しても反応はなく、画面の中から一方的なカリムの声が聞こえる。
『今日はあまり起動してくれないんだな』
『ちょっと寂しいぜ』
『この間はなにを食べていたんだ?』
『ナジュの…ううん。ジャミルの作った飯は美味いんだろうなあ』
「…は?」
俺の本当の名前をカリムは呼んだ。説明書を再度読み漁ると、一番最後のページに行きつく。
【追記:好感度ゲージMAX時にあなたがもし本当の名前を教えておらず、キャラクターが本当の名前を知ったとき、ゲームオーバーになります。キャラクターは嘘が苦手です。とても傷ついてしまうため、記憶がリセットされてしまいます。さいしょから始めてください。】
【さいしょからはじめますか?(これまでのセーブデータは消えます)】
ここは俺の自室だ。あちこちに本名を知るモノがある。いつばれてもおかしくはない。
だいたいこんなゲーム、本名でやるほうが間違ってるだろ。苛つきが止まらず、説明書をゴミ箱に捨てた。
「―やっぱりこの世界にカリムはいなかったんだな」
俺には前世の記憶というものがある。
妹のナジュマに、父さん、母さんの家族構成。これは前世も今世も同じだ。間違えてない。
でも、唯一ずっと傍にいた『カリム』にそっくりな『カリム』だけがいない。
あれだけ、アジームの長として俺の気持ちも生い立ちもなにもかも振り回しといて、身内に盛られた毒であっけなく死にやがった、『カリム』。
まさかゲームの中に転生したとは思っていなかったが、カリムに『ジャミル』の記憶はない。
ああすべて思い出した。
この世界に『カリム』はいない。ならそれでいい。それなら、必死に探す必要もないんだ。
【さいしょからはじめますか?】
【はい →いいえ】
【つづきからはじめますか?】
【はい →いいえ】
【セーブデータをみますか?】
【はい →いいえ】
もういい。終わろう。
俺はゲームのスイッチを切った。
***
とんだ一人遊びだった。きょうは天気がいいから大学の庭で食べよう。
俺はあいつと違って一人で食べる飯は好きだ。一人の時間がないと耐えられない。自分の時間がほしい。次の休みにはとうとう一人旅に出る計画まで立てた。
前世じゃ一人旅の最中に『カリム』の葬儀があったため、中断して国に戻った。今世じゃそんな後悔したくない。
旅雑誌を抱えて、庭に出る。
昨日作った炒め物を雑にパンに挟んで食べる。簡易なサンドイッチだ。
雑誌を1ページ捲ると、影が出来た。おかしいな。今日は暑いくらいに太陽が昇っているはずだ。
「おいしそうな弁当だなあ!」
「は」
見上げると、見知った白銀の髪色に溌剌とした表情の男がいた。
ぼろり、と、サンドイッチを零してしまう。
「隣、空いてるか?」
【最初から、はじめましょう】
Timeless(後編)
***
Jーside
***
卒業式典まであと1か月も切ったころの話だ。
『明日、実家に戻ることになったんだ』
こいつに振り回されることなんて慣れている。突拍子もないことを言われようとも、対応できるだけの能力が自分にはあると思っていた。
『連絡が来たんだ。…とーちゃんの体調が優れないって』
『俺は聞いてない』
『だから、オレだけ先に帰るんだ』
『は?』
あれだけ、学友たちと共に卒業することを喜んでいたはずなのに。採寸された式典服を嬉しそうに着ていたのは誰だ。主人であるこいつが先にアジーム家に戻ることもあり得ないのに。
『…父さんからも連絡は来ていない。…お前、何か隠してないか?』
『ジャミル…悪い、今は…バイパーもお前にも、他の従者たちにも言えないことなんだ』
生まれてからずっと従者として生きて、アジームに関することにも俺が知らないことがひとつでもあるかもしれないってだけで焦りと苛立ちを覚えた。
『……関係ないってことか?』
『違う、巻き込みたくないんだ』
次期当主であるこいつがNRC在学中に、現当主様が病に伏せてから不穏な空気が漂い始めていたのは感じていた。暗殺を企てるような輩に狙われる一族のことだ。きな臭い噂は尽きない。
『卒業式典はどうするつもりだ』
『残念だけど…オレは出ないよ。だから明日の朝に、無理を言って学園長室で証書だけ貰うことにした。それと、ジャミル…』
『お前はもう、自由だ』
俺は憤りを隠せずに、顔を伏せるあいつの胸倉を思わず掴んだ。
『ジャミル…』
『今、俺が、ここで…』
ユニーク魔法でも使えば、これじゃいつかのホリデーと同じだ。
この真っすぐな紅い瞳が心底嫌いで、忘れてしまいたくなった。
***
幽霊生徒と噂されるカリム・アルアジームに出会ってからよく見る夢がある。名前も顔も鮮明ではないけれど、傍にいないと落ち着かない、存在。危なっかしくて、ほっておけなくて、目を離すとすぐにでも死んでしまっていただろうとまで思わせるようなその相手は、いつも俺を翻弄する。所詮は夢の中の話なのに。
窓から見える今日の曇り空のように、ここ最近、胸の内も晴れない。
「バイパーくん」
向かいに座る女生徒にはっと向き直す。ここは学園近くの喫茶店だ。
「私、バイパーくんのことが好きなの」
目の前にあるアイスティーの入ったグラスの中で氷がひとつ、音を立てて溶けた。頬を赤らめた女子生徒と目が合う。
同学年である彼女には、部活動のマネージャーとして世話にはなっていた。今回も、来る練習試合の打ち合わせがしたいからと、学園近くの喫茶店に来ていた。
なかなか話が始まらないなと思っていたら、結局言いたかったのは部活の話でもなんでもなかったわけだ。
「君のこと、正直よく知らないし…」
「これから知ってくれればいいの」
「……」
少々強引に身を乗り出して、上目遣いで見つめて来られる。その目と無意識に何かと比べて、違う、と思ってしまった。
「悪いけど、今日は打ち合わせに来たつもりなんだ。それに君と付き合う気はないから、知る必要もない」
「ッ……!」
がたんっと席から立ち上がり、女子生徒は鞄を両手に抱えてあっという間に店の出口へ向かった。途中、店員とぶつかったようだがお構いなしだ。
女子生徒が注文したアイスティーは一度も口を付けられてない。かと言って自分が飲み干す義理もないだろうと、自分が注文したアイスコーヒーだけを飲む。
外を見ると小雨が降り始めていた。喫茶店で時間を潰すにはちょうど良い。
鞄から生徒会長候補用の演説資料を取り出す。こっちだって暇じゃない。やっぱり今は誰と付き合うとか、そういうのは煩わしく思えてしまう。
「おまたせしました~」
「え?」
女子生徒とぶつかったはずの店員がテーブルにやってきた。何かを注文した覚えはない。
「違いますよ」
背の高い店員を見上げて言うと、店員はにやりと口角を上げる。
「こちら、カップルでご来店の方へのサービスになりま~すって、女の子帰っちゃったけど」
腑抜けた口調で、コースターを敷き、グラスを置く。ハートの形に曲がったストローが差されて、げっ、と顔を顰めてしまった。
年若い男女がそこに居るだけで、カップル扱いだ。
「必要ないんで、下げてください」
「ま~、そう言わずに?これにはタネも仕掛けもあるんで~す」
「はあ?」
なんなんだ、と思っていると、店員はストローで中を徐にかき混ぜる。すると、無色の炭酸水から色が徐々に赤く染まっていった。
混ぜ終わると、最後には完全に赤一色になった。
「当店自慢の、ざくろジュースでぇす」
さっきからのらりくらりと喋るこの店員。どこかで見かけた顔に似ている。ただでさえ、思い出さなきゃいけないことがあるっていうのに、こいつのことまで思い出さないといけない何かでもあるんだろうか。
「頼んでない、下げてくれ」
「ふぅん。
ウミヘビくん、つまんねえ」
知ったような声で呟かれた店員の言葉に苛立つ。
「なんなんだ、アンタ」
「美味しいのに、ざくろ」
店員は目尻を下げて、にこにこと笑ってみせた。
「これが欲しいって、顔してるくせに」
炭酸の泡が、グラスの中で弾ける。
喉が渇いて仕方がない。サービスというジュースには手をつけずに、アイスコーヒーを飲み干した。
ウツボの双子の片割れがおおっ、と声を上げる。
「俺が欲しいものは、こんなものじゃない」
口元を拭って、勢いよく席を立つとテーブルに代金を置いてすぐに店を出た。
***
あの色はよく知っている。毎日ターバンを巻いて、宝石の乗った装飾をつけてやって、最後の仕上げにアイラインを引く。
ぱちりと目を開くと、そこには高貴な色と光が宿る。その瞬間が何よりも好きだった。
卒業式典当日まで、式典服の採寸をして取り寄せたメイク道具でアジームの名に恥じないようと、どう仕上げるか考えていた。
そんな時間が悪くないと今なら思えるほどだったのに。
ある朝に、学友誰一人にも告げずにあいつは学園から姿を消した。
『クソッ…!』
見張っているつもりが、昨晩に飲んだハーブティーに睡眠系の魔法薬を仕込まれていたらしい。気づけば部屋はもぬけの殻だった。
魔法薬学の課題が分からないといつも泣きついてきていたくせに、あいつが調合できる魔法薬の種類は各段に増えていた。
『一体何が起きてるんだ、父さん』
『私もよく分かっていないんだ。アジーム邸には従者家系も使用人も、血族者以外は立ち入れないようになっている。…私たちも今は家に帰って来ているんだ』
在学中に旦那様が激務による過労で床に臥せていた知らせは受けていた。連絡を受けたその日のうちにあいつと共に一時期的に熱砂の国に帰り、この目で旦那様の姿も確認した。随分と痩せこけていて、息をするのも難しそうだった。
それから回復したと聞いたはずだが、やはり無理が祟ったのかもしれない。
誰よりもあいつの成長を楽しみしている御人が、名門校の卒業式典を目前にした愛息子に対して帰省を急かせるなんて考えにくい。
―だったらあいつの独断か。
卒業式典が終わって、式典服のまま真っ先に鏡へ飛び込む。
本来ならば、学友たちと最後の別れを名残惜しむぐらいの時間が欲しかった。でも今は着替える時間すらいらないと思えるほど、早く、早くと、鏡を潜って熱砂に降り立つ。
アジーム邸に着いたころには夜も更けていた。実家に寄らずに、ここに真っ先に来るなんて何をしているんだろうと自分でも思う。
大きな門構えが見える入口に行くと、警備や護衛人の姿は見えない。入り口の噴水もライトアップされて観光名所になるほどだったのに、しんと静まり返っている。異様な光景だ。
立ち入れないようになっていると言っても、人気がないせいか、正門まではあっさりと侵入できた。
ーどういうことだ?誰もいないのか?
さすがに鍵を開けていることはない。万全のセキュリティで守られているはずだ。ならばどこから侵入すべきか。
旦那様がいる離れの棟はバルコニーを開放している。そこからなら侵入できる可能はある。
マジカルペンを翳し、少し念じると箒が出現した。即座に跨り、一時的に空中に浮かべる魔法を施した。
空から見るアジーム邸は、どの棟の窓からも、光が見えない。使用人の誰もいないじゃないかと思うほど、暗闇に包まれて見えた。
なんとか目を凝らし、離れのバルコニーを見つけて降り立つと、すぐさま箒を消滅させて魔法の気配ごと消す。
今下手に見つかってしまっては厄介かもしれない。
息を潜めて真っ暗な部屋の中へと入る。元々窓はないため、セーフティーになるような魔法が施されているはずが足を踏み入れてもなんの音沙汰もなかった。念のために身も屈めて進んであいつの自室の方向へと向かう。
大理石の廊下に出ると、数メートル間隔で照明は仄かに灯っていた。
『誰かいないのか?!』
思い切って叫んでみるが、反応は見えない。辺りを見回すと、中庭を挟んで向こうの側の棟のバルコニーに人影が見えた。
棟は渡り廊下で繋がっている。全速力で走っていくと、人影が鮮明に見えてきた。
『ジャミル…!?あっ…』
『!』
右腕を庇うように歩いて居たあいつが躓きそうになり、咄嗟に手で支える。掌に、ぬるりとした何かが触れる。
白い反物から赤い血が滲み出ていることに気付いた。
『誰にやられた』
『ッ…これは…』
殺気立つ声を抑えきれずに、歩くのもままならない様子の身体を抱き留める。
『ジャミル、なんで…バイパーも全員解雇したはず…』
『…そんなことは聞いてない。何があった』
『……だめだ。今すぐここから出たほうが良い…アジームはもう、駄目なんだ』
ジャミル、と縋るように見上げてくるガーネットの瞳。
『とーちゃん、しんじゃったんだ。…随分前に…。だから、オレがすぐに当主にならなきゃいけなくて、卒業式典の前に学園を出ることになって…』
ぽろぽろと涙を溢しながら、俺の袖を震える手で掴む。
『…旦那様は、本当に過労が原因だったのか?』
『それも、理由のひとつなんだけど…とーちゃんに…長年仕えてた護衛人が…いただろ』
『ああ。従者家系から成り上がった人だろ。武闘にも精通してる』
『その人が、とーちゃんに毒を盛ってたんだ。…ずっと…何年も』
『は…?』
『それが身体の中で蓄積されて、とーちゃんは倒れたんだ。…それでさ、遺言があって…もし、当主を交代する時には一度、従者家系も使用人も全員を解雇しろって。それは、皆を…護るためにも必要だって』
旦那様はこいつに似て、人を疑うことをしたくないタイプの御人だ。特に身内相手には甘いところもある。一度懐に入れた人間は、アジームの中で一生護られ、生きていく。そんな旦那様を慕う人間は多い。
もし、護衛人が刺客まがいのことをしていたとしたら、相当なショックを受けただろう。次期当主であるこいつの今後のことも考えて、一度、主従関係をリセットすることを望んだ。そうすれば誰も疑わなくて済むから?
『でも、さ、中には、納得がいかないって、思ってる、奴らが…いて』
『…無理して話さなくてもいい。回復魔法をかけるから…』
『うん、ごめん、ごめんな…』
式典服の袖を破り、腹部に宛がう。止血をしてから回復魔法を施した。単なる一時的な効果しかない。
医療機器の揃う邸宅内の医務室に向かう必要があった。
細い腕を肩に掛けさせて立ち上がると、ずるずると、歩き始める。
アジームがタダで使用人を解雇するなんて考えにくい。一生暮らせるほどの額をそれぞれの家系に渡しているはずだが、金に目が眩む奴らはどこにでも潜んでいる。そんなものじゃ足りない、と。
『オレが当主になると、困る、奴らが…』
『…兄弟の親戚筋か?』
『それだけじゃ、ないと思うぜ…とーちゃんのやり方が気に入らないって思われても、おかしく、ない…。オレ、いろいろ考えていたんだ。一度解雇した従者家系や使用人たちをどうやったら呼び戻せるか。どうすれば、きょうだいを護れるか…でも、そんなに…考える時間がなくって…』
邸宅のこの静けさはこいつが、意図的にやっていたことだ。兄弟やそれに近しい家系を真っ先に邸宅から遠ざけ、旦那様の執務室で次期当主として考えを練るために。
そんな絶好の機会、刺客まがいのことを仕出かす人間が逃すはずはないのに。こいつはだれにも頼らずにそれらに立ち向かおうとしていた。
一番近くにいたはずの俺にさえ、頼ることをせずに。
『旦那様もお前も、俺を信用していないことは分かってる…だから1人で考えようとしたんだろ』
『あのことは、とーちゃんだって咎めようとしなかった。どうしてか、分かるだろ、』
『アジームで、ジャミルの世話になってない奴なんていないんだよ』
幼少期に、学校で流行っていたファーストフードがあった。しっとりと濡れたパンズが美味くて、自分でも作れるんじゃないかと、厨房に立った。
試しに作っているとその匂いに誘われて従者仲間や幼き日のこいつがやってきて、口々に美味い美味いと、すべて平らげたことがあった。
それがいつしか旦那様や奥様の耳にも入り、庶民向けの料理を振舞うことになった。
『あら、美味しい』
『美味いな!これが下町で流行っているのかい?』
『ジャミルはなんでもできてすごいな!』
『いえいえ、滅相もございません…』
あの時の父さんの顔は少し引きつっていて、それが少し面白くて、妹と二人で笑ってしまった。
『とーちゃんは、ジャミルのこと大事に想ってくれてる。お前は、違うって言うだろうけど、…ジャミルはオレの…大切な友達、だから…』
大粒の涙の雫がぼとりと落ちる。
それがこの世で一番綺麗で嫌いだと思う程度には、俺も冷静を保てずにいた。
『……カ、』
抱え直して、こいつを医務室に運んで、手当して、もう一度、一緒に生きてみても悪くないと覚悟を決めた矢先だった。
『さようなら、次期当主殿』
執拗に狙っていた刺客は、解雇された元従者家系の人間だった。
その気配に気付けず、回復魔法を施したばかりの腹部が勢いよくナイフで貫かれる。
『……あ……』
口唇から血が溢れ出た。白い反物はいよいよ真っ赤に染まってしまった。
『―――――!』
この瞬間愛おしいとさえ思っていた名前を大声で叫んだ。そのあとのことはあまりよく覚えてない。
***
「私はサスティナブル月間の提案をしようと思ってます。昨今、環境問題は深刻化しています。我が学園も今後の社会を担う人間の1人として生徒の自覚と自主性を示すために、例えば不要になった衣類の切れ端を利用して来る文化祭や学園行事の出し物の材料として再利用をしたりなど、再利用や加工に関して地元企業の応援が必要な場合は生徒会が積極的に主導し、生徒、教師、企業の橋渡しを担い、生徒全員が環境問題に取り組めるような体制作りを強化していきたいです。これで、私の演説は以上になります」
用意してあった原稿を読み切り、軽く礼をすると拍手が聞こえる。
ここ数週間、次期生徒会長選挙に向けて準備をしていた。テストや部活の練習試合と重なり忙しない日々に加えて、見たくもないような夢を見ていたせいで、瞼は重い。
それでも、ライトアップされた舞台の上で全校生徒の顔が見える。そこで無意識に誰かを探すように見回す。
パチパチと皆が手を合わせている中で、ひときわ目立つのは白銀の毛髪に、大きな紅い瞳…小柄なくせによく目立つ。
「ッ……」
目が合あった気がする。微笑まれたような気がする。
ふいに視線を外し、舞台袖へと戻った。
教師には期待されていると言われた。部活での活動も評価されいてる。もう直に部長にもなれるだろうと。クラスメイトとの関係も良好。順風満帆な学園生活だ。
実力を誰にも邪魔されることなく発揮できるし、家族にだって誇らしく思われている。
何も不自由がないはずなのに、心の中はすっきりとしない。まだ見ぬ光を求めているようで、釈然としない。
喉がカラカラだ。唇も乾燥している。
袖に用意してあったペットボトルの水を飲み干す。冷水が体を潤す。人間にとって水は必要だ。それがなければ生きていけない。
そんな存在が、かつて俺にもあった。
「…あ…?」
目尻から、熱いものが零れた。指で触ると冷水とは真逆に火照った頬を涙が伝い落ちる。いくら疲れているからと言って、こんなに柔な体になったつもりはない。
「うそ、だろ…」
とめどなく涙が溢れてくる。
あの時も、確かにこのくらいの、涙を流しながら誰かの名を呼んでいた。
「カリム……」
ふいをついて出た言葉は、水飲み場で出会ったあいつの名前だ。
もやもやとした気持ちが収まらず、原稿を乱雑に丸めて、ポケットに乱暴に突っ込んだ。
***
K-side
***
『ジャミル・バイパー』
候補者の名前の欄に、大きな丸印を書いて投票箱へと入れる。
ジャミルは学園内の人気者だ。きっと大勢がジャミルに投票して、次期生徒会長となるだろう。
本当は傍で親友として応援できればよかったけど、そうなるとオレはジャミルにとって邪魔にしかならない。
前世で散々、痛感したことだ。
どこまで行っても主従関係しか築けなかったオレは、それにふさわしい結末を迎えた。
ジャミルやアジーム、バイパー家のその後はアズール達に教えられた。
アジームはすぐ下の弟が継ぐこととなり、きょうだいたちの大勢の子孫が後世に残った。皆でアジームを再建し、バイパー含む従者家系も全員が出戻った。その後は主に熱砂の観光事業を担うこととなり、前世のアジーム家は立派な観光名所となっていったらしい。
再びアジームに生まれ変わった時に、とーちゃんにも、涙ながらに前世のことを伝えられた。
オレは前世の人生を後悔していない。いつかはなくなる命だと知って、日々を生きて来た。
でもオレにアジームをまとめるだけの力がなく、とーちゃんが築き上げた歴史を引き継ぐことはできなかった。
ジャミルには迷惑をたくさんかけたであろうということは想像できる。だからこそ、もしジャミルと出会う日が来るなら次こそはジャミルに迷惑をかけないように、オレなんて、最初からジャミルの傍にはいなかったように生きていきたいと思った。
NRCにいた頃みたいにジャミルがオレに遠慮して我慢するようなことがあってはならない。
地面にぽたりと落ちる血と汗を見る。前世の記憶とよく似ている。でも致命傷じゃないし、死ぬほどのことでもない。
「あー ほんとムカつくわ、お前」
生徒会長候補演説が終わって、下校する時間だった。
寄り道するところなんてないオレは、一直線に帰るつもりだったのに裏庭で足を止められた。
顔はやめてくれって何度言っても、相手は聞きやしない。頬を思い切り殴られた。今日も幽霊生徒のオレは目の前にいる数人の生徒たちの反感を買っていたらしい。胸倉を掴まれて、地面に突き飛ばされる。ここが裏庭でよかった。この間の、コンクリートの地面はさすがに痛かったな。
「いいよなあ、坊ちゃんは。その日の気分で登校かよ」
「しかもお付連れでな」
「テストも免除だろ?」
自慢できるほど成績はよくないし、アズールに教えてもらってやっと平均点に届くくらいだ。テストは個別で受けているし、オレが登校を渋る理由はとーちゃんもジェイドもよく分かっている。それを言ったところで、暴力が収まるわけでもない。
好き勝手言い放って、満足したのか踵を返す背中を見てオレはのろのろと立ち上がる。
「なあ、お前達」
ぴくりと、反応した背中が歩を止める。
「オレ、学校を退学しようと思ってるんだ。だから、もう、安心してくれ」
ジャミルにも、お前達の目にも触れないように生きていくにはどうすればいいのかずっと考えていた。とーちゃんにはまだ言えてないけど、退学したら実家に戻って新しい学校を探すつもりだ。
殴られたり嫌われることには慣れている。ただ、オレの傷ついた頬を苦々しい顔で見つめるジェイドや、仕事でもないのに学園の様子を逐一報告していくれるアズール、いつも心配してくれているとーちゃんに、これ以上オレにとっての家族たちに迷惑をかけたくない。
この世界は魔法も何も使えない。傷口も簡単には治せないんだ。
ガタイの良い1人の生徒が、大股でオレの方へと近づく。また殴られるなあ、と目を瞑って歯を食いしばる。
振り上げられた拳が頬に再び落ちてきそうな時、後ろにあるフェンスが大きな音を立てた。
「なんだ!?」
生徒たちがざわつく。ゆっくり目を開けると、バスケットボールを片手に持った人物にぎょっとする。
「悪い。手が滑ったみたいだ」
さっきの派手な音の正体は、フェンスに向かって飛んできたボールだ。横目でちらりと見るとフェンスは少し凹んでいる。
制服姿のジャミルは、ボールを一度バウンドさせる。その表情にぞくりとしてオレは慌てて口を開く。
「ジャミル、大丈夫だから!あの、オレ、何もされてな、」
「今なら」
数人の生徒を、切れ長のチャコールグレーの瞳がじろりと睨む。
「俺の権限で、教師にも黙っててやれる。…どういう意味か分かったなら、これ以上こいつに近づくな」
「…チッ」
さすがの生徒達も、ジャミルの顔はよく知っているようで、数人が後退るとオレを殴りそうになっていた生徒も舌打ちをして離れて行った。
「―いい気になるなよ」
すれ違い様、ジャミルの耳元で呟いて去っていく生徒たちの背中をじっと睨んだあと、ジャミルはそのままの表情でオレを射抜くように見た。
「ジャミル……ッ」
「来い」
ぐいっと、片腕を引っ張られる。もう二度と離してくれないのかと思うほど、強い力で握られている。
裏庭を抜けて体育館へと入る。部活中なのかと思っていたら、生徒は誰一人いなかった。前世のころとは違う、黒髪を短く切り揃えた頭を後ろから少し見上げる。身長はあの頃と変わらない。ジャミルが前を歩く時は、オレは後ろから少しだけ見上げることが多かった。
広い体育館の奥にある部屋のドアノブに手をかける。扉には更衣室のプレートが貼り付けてあった。
ジャミルはオレの手を一度放すと、部屋の一番奥にあるロッカーを開けてバスケットボールを入れて、引き換えに真新しいタオルと学園のエンブレムのついたリュックを取り出した。
更衣室の中にある洗面所でタオルを水で濡らして、ジャミルはオレの腫れあがった頬にそっと当てる。
「いっ…!」
「これ。自分で当ててろ」
「う、うん…」
冷たいタオルが、傷口に染みる。ジャミルは真剣な顔つきでオレを見つめたあとリュックの中を探る。小ぶりのポーチから取り出した絆創膏を手に、再びオレに近づく。
「良いって、ジャミル!オレは大丈夫だから!」
ぶんぶんと頭を振るとジャミルは怪訝そうな顔をする。絆創膏を貼られてしまうとさすがにジェイドに言い訳ができなくなる。
後退っていると、ジャミルの長い腕が伸びて来て、ちょうど後ろの壁に勢いよく片手を付かれた。びっくりして見上げると、じろりと綺麗な瞳が睨みつけてきた。
「ッ…」
傷ついた口唇に手際よく絆創膏を貼られる。頬に触れるジャミルの指先は優しい。
―前世の遠い記憶、幼かったころも…転んで膝を擦りむいたときも、ジャミルは手当をしてくれていた。それを思い出してしまって、胸の奥底からどうしようもない切ない気持ちが込み上げてきた。
今世のジャミルに記憶はない。幼かった時のころなんてもっての他だろう。オレだけが前世の記憶を引きずり、今に生まれ変わってしまった。
神様は少し意地悪だ。オレだけが記憶を宿して、一番に大切に想ってる人の記憶からはオレのことを消し去ってしまった。
それだけならよかった。ただし巡り会ってしまってはもうだめだ。
入学式で初めてジャミルを目にしたその日の夜には泣いてしまっていた。だってこんなの、意地悪だ。
何も知らずに今世を生きていければよかったのに。
「…泣くほど、痛いのか」
「う……」
気付けば、ジャミルはオレの涙を拭っていた。ぽろぽろと零れてしまう涙はどうしたって止めることができない。
前世のオレはとても元気だったと思う。底抜けに明るくて、おおざっぱで。でも今のオレはなるべく目立たないように、静かに日々を過ごすことを意識していたせいか、自然と物静かな性格になっていた。今のジャミルは、そんなオレになっても世話を焼いてくれる。きっと誰にでも優しいんだ。相手がオレじゃなくても…
涙を拭おうとポケットからハンカチを出そうとすると、ちょうどスマートフォンに着信が入った。相手はジェイドだ。
「…もしもし…」
『カリムさん。今、正門前に着いています。もしお取込み中でしたら、お迎えに参りますが…』
「……あ、わ、悪い!大丈夫だ!すぐ行く!」
『はい。では、お待ちしてますね』
時計表示を見ると、いつもジェイドが迎えに来てくれる時間だった。通話終了ボタンを押してポケットに戻していると視線を感じた。
再び向き合うと、ジャミルは怪訝そうな顔をしていた。
「今の、誰だ?」
低い声が更衣室に響く。
「誰って…あ…ジェイドって言って…オレの世話係をやってくれてるんだけど…」
「は?ジェイド?…お前、アイツらとも…付き合いがあるってわけか…」
「へっ?ジャミル?」
「そういえば隣のクラスの担任も名前がアズールだったな」
「あ、ああ。アズールはオレの家庭教師やってくれていて…」
「あの喫茶店の店員は…フロイドか」
「…ジェイドの弟のこと…か?フロイドも、良い奴なんだ。たまにうちで飯を作ってくれて」
「へえ…そうか。くくっ・・・・俺の飯より美味いか?」
「えっ?」
「おかげで思い出したよ、カリム」
ジャミルはにこりと綺麗な笑みを見せた。ただし、目の奥底が笑っているとは思えない表情で。
***
J-side
***
「…おや。カリムさん。そちらの方は?」
「ジェイド…その…」
「知ってるくせに、よく言えるな」
「ふふふ」
学園の正門前に高級外車を側につけて、行儀よく佇んでいるのはクラスの女子たちが黄色い声を上げていた人物だった。
そいつは俺とカリムを見て、苦笑しながらカリムの学生鞄を自然に持ち運ぶ。
よかったらジャミルさんも、と俺が肩に掛けている大ぶりの学生鞄も預かろうと手を差出されたが、距離を取って拒絶した。
「嫌われちゃいましたね」
「そ、そんなことないぜ、ジェイド!」
「お前、ずいぶんと甘やかされているようだな」
「うっ…」
本来なら、ジェイドのポジションに俺がついていたはずだ。今の俺は、運転免許が取れる歳でもないし、カリムに勉強を教えられる職業についているわけでもなく、店を経営するほどの料理人でもない。
それが、とんでもなく悔しいことだとは思いもしなかった。
「そういえばジャミルさん。言い忘れていましたが、今日は先客がいまして」
「は?」
ジェイドのエスコートによって開けられた後部座席には、もう1人のよく知る人物がすでに奥に座っていた。
「おや」
「……」
隣のクラスの担任教師兼、カリムの家庭教師のアズールだ。
「アズール!今日は勉強の日だったか?」
「カリムさん、昨日もお伝えしましたよ?明日は僕、用事があるので明日の予習分を今日に回すと」
「すまん、忘れてた!」
「全く…ああ、こちら座ります?ジャミル・バイパーくん」
「……白々しい……」
吐き気がしそうなほど、白々しい呼び名で弄り甲斐がある玩具でも見つけたような顔で、アズールはにやりと笑う。
俺のげんなりした顔に気付いたカリムは俺とアズールの仲を取り持つように間に入ってちょこんと座った。
「いつからだ」
「いつから、とは?」
「お前がアジームに雇われてから」
「僕の両親がカリムさんのお父様にお世話になっていまして…まあ、出資関係なんですけど、元々家族ぐるみで交流させて頂いておりました。お父様、カリムさんが体が弱くてあまり学校へ通えていないことを大変気にされていまして、当時教育学部の学生をしていた僕にアルバイトと称しての家庭教師をしてやってくれないかと申し出があったんですよ。前世のお友達だということで、当時小学生だったカリムさんも安心だろうとお父様から直々に契約書をくださいました」
「……」
「ジェイドとフロイドも同じ大学に通っていたんですよ。ジェイドは今カリムさんの執事として雇われています。最初は僕と同じで割の良いアルバイト感覚だったんですけどね。フロイドは…あいつは自由人ですから、気まぐれに、学校近くの喫茶店を経営していますよ」
「あ、ジェイドはな、普段とーちゃんの秘書もしてくれてるんだ」
「……」
ミラー越しにジェイドと目が合い、にこりと微笑まれる。車は静かに動いていた。
俺がいなくてもカリムは生活ができる。
それに今世に至っては、毒を盛られることも刺客に襲われたり誘拐されたり、物騒なことは早々起きない。・・・はずなのに、学園内で目に付けられる羽目になっているのは、カリム自身が気にくわないと思っている輩が多少いるからだ。
前世の俺も、一度はその思想に支配されて裏切ったことがある。なぜ俺ばかりが譲って我慢して生きていかなければならないんだと、不満が募った。カリムを殴った連中も、それに似た感情があったのか。
普段学園に来ないくせに、単位は修得し、もしかしたらテストも免除されているかもしれない。それが資産家の息子となれば、教師陣だってぺこぺこと頭を下げるだろう。進学校の中にも劣等生の部類に入る人間だっている。その劣等生たちがどんなに努力をしたって、教師陣がカリムを贔屓しているような錯覚を覚えてしまっては、嫉妬や怒りの矛先はやはりカリム本人に向かってしまう。
カリムが、どんな人間か、どんな生き方をしているのか、知ろうともせずに―。
「ジャミル…?」
「……」
「…オレ、また何かやっちまってたか…?」
不安の表情をにじませたカリムが見上げてくる。俺だけが映るガーネットレッドの瞳が艶やかに光って見えた。また、泣きそうな顔をしている。最後の記憶にある表情を同じだ。傷ついて、苦しそうで、カリムはそんな顔で俺を見てくる。
NRCに居たころはもっと朗らかで能天気な顔ばかりしていたと言うのに。
けれど、そんな顔をさせているのが俺自身だと思うと、ほんの少し優越感に浸れる実感もあった。
これは前世からずっと引きずっている些細な独占欲の結果だ。
カリムの頬に手を当てて、べっ、と舌を出して見せる。
「そうだ。お前の全てが気にくわない」
***
たどり着いたカリムの家は、高層マンションの最上階。カードキーを翳すだけで開く玄関から廊下を渡り、リビングに入った。
高校生が1人住むには広すぎる。
オープンキッチンの傍には質の良いダイニングテーブルとチェア。正直、俺の実家にあるものより広々と使えそうな代物だ。
カリムの通学鞄をラックに掛けて、ジェイドはキッチンに向かった。
冷蔵庫から取り出して並べられていく食材をカウンター側から眺めながら、カリムは俺の方へと振り向いた。
「夜ご飯は皆で食べようぜ!ジェイドの作る飯は美味いんだ!」
宴しようぜ、なんて乗りで、カリムはにこりと笑う。
それよりも聞き捨てならない。誰の飯が美味いって?
「ああ。けど、俺も作る。キッチン借りるぞ」
「えっ!?」
「おやおや」
別に対抗心が芽生えているわけじゃないが、ジェイドはにやにやと笑う。
並べられた食材は魚介に、きのこ類(なぜか種類が多い)、少量の野菜に、市販の固形調味料。料理名の予測は十分につく。
カリムが前世で唯一苦手と言った、俺の好物だ。
どうやら今世のカリムは特に苦手というわけでもないのだろう。だったら、更に、特別に美味しいって思わせるほどのモノを作ってやる。上段にある調味料の棚には様々なスパイスが並べられている、その中からカリムが好きそうだって思えるモノは直感で分かる。
数種類の小瓶を開けて匂いを嗅ぐ。カリムが気に入りそうなものをいくつか卸して、混ぜ合わせる。
隣で具材の下ごしらえをしていたジェイドの手を止め、自ら包丁を握る。何か言いたげな視線を感じたが、そんなことどうだって良い。俺が今ここに来たからにはお前にはきっと、カリムを心の底から満足させる料理なんてできやしない。
大ぶりの鍋に自分で切った具材と調味料を入れて火加減を見ながら中をかき混ぜる。魔法薬学の授業で習ったみたいに、ゆっくりと丁寧に。
「僕の仕事はここまでみたいです」
「ジェイド。お前、姑に追い出されたみたいですね」
「そうなんです。しくしく」
「ジェイド、泣かないでくれ!」
「……」
とんだ茶番を目にしても静かに鍋をかき混ぜることのできる冷静さを俺は持ち合わせている。
こいつら、毎回こんな茶番やってんのか、とか、いろいろと言いたいことはあるけど。
ふつふつと煮込まれた中身を確認して、一旦火を止める。できあがったそれを白米の載った皿に盛りつけて順番にカウンターに出すと、目に見えてきらきら、にこにことした表情でカリムはせっせと皿をテーブルに運んでいく。
そういえば、宴の最中に俺の料理を運ぶ時のカリムは心底楽しそうだった。それは今でも変わらないのだろう。
「いただきます!」
両手を添えて、カリムは行儀よくスプーンを握る。
カレーを掬って、一口食べる。喉を通って、一口だけ終えると、カリムはまた瞳からぽろりと涙を溢した。
「本当、よく泣くな」
呆れて、涙を拭ってやるとごめんな、と小さい声が聞こえた。こんな時、しおらしくなるのはカリムの良いところだ。
「美味くて、びっくりしたんだ。オレの好きな味だ。…これなら、腹いっぱい食べられる」
「カレーは苦手だったんじゃないのか?」
「そうなんだ。元々苦手だったんだけどなあ。今は食べられるようになって…今日のカレーが一番美味い!」
「ふぅん。ジェイドの作ったものより?」
「えっ?」
「ふふふ」
「ジャミルさんはお変わりないようですね」
「…うるさいな」
向かい合った席に座るアズールとジェイドは苦笑する。この、面白いものでも見つけたような顔をするこいつらのことは前世から苦手だったが、今でも好きになれそうにない。
「ああそういえば僕、用事を思い出しました。カリムさん、今日の予習は無しにしましょうか」
「えっ?用事は明日じゃなかったのか?」
「ええ、僕としたことがうっかり。間違えていました。ごめんなさい」
「オレは良いけど…」
不自然な流れに俺の眉間は自然に寄っていく。こいつまさか
「タダ飯食いに来ただけじゃないのか…」
「ああ、なんて人聞きの悪い!」
「ふふ。アズールってば、大げさですよ」
さあ、行きますよと、食べ終わった食器類を片付けて、ジェイドはアズールと共に家を出る。カリムはご丁寧にも玄関先まで2人を見送り、気をつけてな!なんて、呑気に笑う。
がちゃり、と、玄関扉が閉まったところで振り返って来るカリムをじっと見つめると、きょとんと顔を傾げた。
「ジャミル?」
「お前、気づいてないのか?」
「どういうことだ?」
「…海の魔女とその手下からの慈悲深いお気遣い」
「……ああ!二人っきりにしてくれたってことか!」
「……お前、そういうことは言葉にしないものなんだよ。ムードのないやつめ」
「むっ」
なるほど!なんて、言い出しそうな薄い口唇に人差し指を当てると、カリムは口を噤む。大人しくなったところで、手を引いてリビングに戻り、そっとソファーに座る。
ジェイド、アズール、フロイドが座っても十分な大きさだ。4人で座って楽しく過ごしてた日々もあったのか。俺が知らないうちに、知らないところで…。
「ジャミル、あの…手…」
いつの間にか握っていた手に力が籠っていた。カリムから指摘されたところで、俺は力を緩めるどころか、更に力を込めた。驚いて身を引こうとするカリムの肩を掴むと、びくりと、体を震わせた。
「お前はまたそうやって、俺から逃げる気か」
「そんな……」
「勝手にアジームに戻って、勝手に俺より先に……」
目の前が赤く染まっても、弱っていくカリムに回復魔法を与える他なかった。近くの小部屋に逃げ込んで、生きろと何度も念じた。こいつはそんな俺のことなんてお構いなしに、勝手に息絶えた。
途方に暮れていると、騒ぎを聞きつけた父さんが数十人の使用人を従えて屋敷に乗り込んでいた。使用人の中には魔法師も含まれていてその瞬間、一瞬だけ、カリムは助かるんじゃないかと思った。
けれど、首を緩く振られる。遅かった、と大人達が口々に言う。気づけばカリムは白い華が敷き詰められた棺に入れられて、あっけなくその生を終えたのだ。
こんなことでアジームは終わらせない、と、奮起したのは残されたカリムのきょうだいたちとその従者だ。カリムの弟をトップに置き、従者家系の中では父さんが指揮を執り、魔法師を中心に使用人のチームを一から形成した。
俺はNRCを卒業したあと上級魔法師の資格を習得すべく、その年熱砂にできたばかりの魔法学校へ編入した。従者としての鍛錬も怠らず、アジームを再建させるためにバイパー家として、尽力した。
その結果として、アジームから斡旋された見合いも受け入れて、聡明な妻と子宝にも恵まれた。最後は老衰。
けれど、死ぬまで、俺の本心は、ずっとカリムに囚われたままだった。
もしも、NRCの卒業前にカリムを引き戻すことができたなら、カリムは死なずに済んだのか、俺がオーバーブロットさえしなければ、カリムは隠し事なんてしなかったのか。
前世の人生に後悔なんてしてないと、ずっと思い込みたかった。
「ジャミル」
気付くと、視界が暗い。カリムの肩に額を当てていたせいだ。
温かい掌が俺の背中をゆっくり撫でる。なぜこの温もりを今まで忘れていたのか。
「俺だけが……忘れたままだったのか……」
オクタヴィネルの連中ですらカリムに関する記憶がある。旦那様にも、もしかしたら、父さんにも記憶があったのかもしれない。
俺だけがまた置き去りにされている。
「……忘れたままでよかったんだ、ジャミル。オレはさ、ジャミルに自由に生きててほしい。お前を入学式で見た時に、オレはお前に会っちゃいけないって思った。…駄目だったんだけど…」
静かに呟く声が、心の奥底に染み渡っていく。枯れた草木しかない砂漠の果てに、一滴の雨水が降り注ぐようだ。
肩から額を離して、カリムと向き合う。
俺がずっと求めていたガーネットレッドの宝石から、雨水が滴る。
頬を伝って流れるそれを止めてやろうと指を添えると、カリムも同じような動きを見せる。
「泣かないでくれ、ジャミル」
生ぬるい何かが、頬を伝っている。カリムの不安気な表情でそれが涙だと気付かされる。
「そんな顔されたらオレ…退学できなくなっちまう」
「……は?…ちょっと待て。なんの話だ。お前また、俺に黙って勝手なことをしようとしてるのか」
「ジャ、ジャミル?」
ソファーの上で後退るカリムの腕を取って、ぐいっ、と距離を詰める。
「まさか、あの不良共のせいで…心配するな、あんな奴らこそ退学に追い込んでやるよ…お前に手を出されてこの俺が黙っていられると思うか…?」
「ちょ、ちょっと、ジャミル、落ち着いてくれ!オレは、殴られたから退学するってわけじゃないぞ!?これ以上ジャミルの邪魔になりたくないんだ!」
「ッ、」
切羽詰まったような声色で涙ながらに声を張る。カリムは深呼吸をして一度落ち着くと、涙をぽろぽろと溢しながら俺の手を握り返す。
「いまのオレと出会って、ジャミルにとっていいことなんてない。むしろ、オレと知り合いだってだけで学園での立場も悪くなるかもしれない。だから、オレ、とーちゃんにお願いして退学しようって…思ってたのに…やっぱりオレ…」
「……なんだよ」
言えよ、と、急かす。こいつはこんなにうじうじとした奴だったのか。
まさか前世のカリムにも俺の知らない部分がたくさんあったのか。
「オレ、やっぱり、ジャミルのこと…好きで……好きだから守りたくて…あの時は…死んじまったけど…でも本当はずっと……」
一緒に居たかったんだ。
カリムの柔い体を抱きしめた。縋るように、両手が背中に回されて、俺はようやく、心の底からの笑みが溢れ出た。
こんな簡単な言葉、前世で言えなかった。
「一生離してやらない。…覚悟しとけよ」
大人しく目を瞑ったカリムの口唇に、今はただ、触れるだけのキスを落とした。
***
『ラッコちゃ~ん おはよぉ』
『おはようございます』
「フロイド、ジェイド!おはよう!」
インターフォン越しに見える双子に応えて、カリムが勢いよく玄関扉を開ける。
「あれぇ。ウミヘビくんがいる。」
「居て悪いかよ」
「おやおや…ご家族には何と?」
「…別に。友達の家に泊まる、って言っとけば充分だろ」
「と、友達っ!?ジャミルッ…!」
「あはっ。ラッコちゃん感動してんの?」
「お前のこと友達だって思ったことない」
「ええっ!」
「ふふっ。カリムさん、一喜一憂してますね」
たしかにカリムはころころと表情が変わって忙しない。ただそれが俺の一言で翻弄されていると思えば、正直気分が良い。
双子が持ってきた紙袋の中から出て来たテイクアウト用のサンドイッチと、飲み物がテーブルに置かれる。
「フロイドのサンドイッチは美味いんだ!」
「ふぅん」
俺がいくらでも作ってやれるのに、と、喉から出かかった言葉を飲み込む。
透明のカップに入った飲み物はあの日、喫茶店で見た色と同じものだった。
「これ、美味しいんだよー」
「なんのジュースだ?」
小首を傾げるカリムの横で、カップを手に取る。少し上に掲げると、ベランダから差し込む朝陽でより赤く、照らされる。
「ざくろジュース」
今度こそ、飲み干してやる。
***
K-side
***
ジャミルが生徒会長になって、学園は一層風紀が良くなったと、アズールは言う。
特にジャミルが提案したサスティナブル月間は近隣の大学や企業にもっぱらの評判で卒業後の進路の選択肢が増えて生徒に指導しやすくなったらしい。
「さすがは策士ですよね。こうして、僕たち教師陣の評判まで上げてしまうんですから。たかが学園の一生徒、というだけでは終わらないのがジャミルさんのすごいところです。NRCの頃も一目置いていましたが、彼は今世でも変わらないようだ」
「うん。ジャミルはやっぱりすごい奴だよ」
オレもなんだか上機嫌になってしまう。
ジャミルがすごい奴だって褒められるのは嬉しい。オレだけじゃなく、学園中の人たちがそう思ってくれてる。
「――――。
最後になりますが、学園生活を支えてくださったすべての方に改めて感謝申し上げます。学園の益々の発展を祈って、答辞といたします。生徒代表、ジャミル・バイパー」
いつかの生徒会長選挙の時と同じように、ジャミルはステージ上にいる。
退学しようってずっと思ってたのに、卒業式のこの日まで、オレはジャミルの近くに居られる。嬉しくて涙が出た。
でもまた泣き虫だなんて思われそうだから、すぐに目元を拭う。
卒業式会場の外へ出て、少し深呼吸をした。手にした卒業証書を持ち直していると、目の前を通り過ぎていく生徒の1人が歩みを止めた。
「カーリムくん!卒業おめでとうっスね!」
「ラギー!」
実はラギーとは中学が同じだった。前世のころから宴に誘えばいつだって乗ってくれる良い奴だ。オレを見かけてはいつも声をかけてくれる。
「ラギーも、卒業おめでとう!」
「シシッ。パーティーはいつでも大歓迎っすからね!」
「ああっ!絶対誘うぜ、次はジャミルも」
「俺がなんだって?」
「あっ、ジャミルくん」
「ジャミル!」
ラギーと話していると人だかりの中からジャミルが現れた。目に見えて、オレは喜んでしまう。これが犬なら尻尾すら振っていると思う。
「オレ、まーた、お邪魔になりたくないんで。じゃあね、カリムくん、ジャミルくん」
「お、おうっ!またな!」
なぜか足早に去っていくラギーに手を振る。もっと話したかったなあと呑気に思って隣を見ると、ジャミルは眉間に皺を寄せている。
「あいつにも記憶が…あったのか」
なんて顔してるんだ、って笑ってしまう。
「…なんだよ」
「ふふっ…いや…なんでもない…ひゃみう!」
「ムカつく顔」
「ふふっ、へへっ」
「笑うな」
へらへら笑っていると両頬を指で優しく掴まれて外側に引っ張られた。それってもしかして嫉妬か?ってなんて聞いた日にはジャミルは怒るだろうなって思う。
ジャミルはひとしきりオレの頬を引っ張って楽しむと、すっと指を離した。
「ジャミルの挨拶、感動したぜ!かっこよかった!」
「…今はそういうの…いいから…」
「え?なんでだ?…わっ!」
急に顔を逸らされて、納得がいかないオレはジャミルの顔を覗き込むと両手で顔を挟まれた。
近づいてくるジャミルの顔は、ほのかに赤い。
額がぴたりとくっ付いて、ジャミルの熱が移ったみたいにオレも体温が上がる。
「そういうのは…ふたりきりのときに言え」
「……うん」
小さく返事をすると、ジャミルはオレの手を握る。
ゆっくりと歩き出し、大勢の卒業生の中に紛れて銀杏並木の道を行く。
正門の外へ出て、学園の角を曲がったところでジャミルはキスをしてくれた。
それはとても甘くて優しい。
一生ジャミルの傍にいたいって気持ちが、やっと許されたような気がして、オレは何度目か分からない涙を少しだけ零した。
***Subsequent story***
今日の分の講義は午前中で終わり。
久しぶりに午後からフリーだ。
教材と飯の入ったリュックを背負ってキャンパスの中庭へ行く。
今日は天気が良い。
この大学の良いところのひとつは、広々とした中庭があるところだ。
学生たちは各々のお気に入りのスポットがあるらしく、人が一か所に密集することはあまりない。
入学して数か月、もう少しで汗ばむ季節になる。日中は太陽の熱で暑さを感じることもあるから、木陰のすぐ下なんて最高だ。小さな木のテーブルや椅子だってあるから、こうして弁当を広げるのも荷物を一度卸すのにも最適だ。
ふと、芝生を歩く足音が聞こえてきた。
「遅いぞ」
「すまん!」
申し訳なさそうに下げられた眉。太陽の光に照らされるのは黄金のピアスだ。
「課題提出するの忘れててさ、先生追いかけてたら遅れちまった」
「期限は間に合ったのか?さすがに教育学部の課題は見てやれないぞ」
「おう、ばっちりだぜ!」
褒めてくれ!と言わんばかりに、カリムは隣に座る。
「ジャミルは?」
「俺は実習がまだ先だからな。課題ものんびりやってるよ」
「そうなのかあ。理系の奴ら大変そうだったぞ?」
「理工学部と医学部じゃ、ちょっと違うだろ」
「そういうもんなのか?」
小首を傾げるカリムを横目に弁当を広げていく。
簡単なものしか作ってはいないが、ピタパンの中はカリム好みに味付けされた鶏肉を挟んでいる。
「美味そうだなー!いただきます!」
溌剌とした声に似合わず、小さく口を開いてかぷり、と音を立てる。カリムは食事中、たとえ軽食程度の時でも、育ち故か上品にゆっくりと食べる。よく味わっているとも言うが。
「美味い!」
―ああ。この瞬間だ。
俺しか傍にいない、今ここで、この笑顔を独占できるんだって、そう思わせてくれるこの瞬間が好きなんだ。
やっと、前世の最期を一からやり直せるって実感した。
絶対に、一生離してやらない。
Dolls (序章)
※転生後ジャミル×ドール(人形)カリムの物語。カリム以外の登場人物に前世の記憶があります。
友情出演・オクタヴィネル。
Doll specialty store ⁂ Octavinelle
Dolls【ドール】
人形。オーナー(所有者)と契約することで人間と同じ生活を営むことが可能。生殖機能も老化現象もないが、オーナーが死亡するとその数日後に心臓の歯車が自動停止する作りとなっている。
***
今日もあの人は笑ってくれない。
朝の9時と、それから正午。オレの身体は、特定の時間になると自然に動き、踊り始める仕組みで作られている。店内の音楽に合わせてディスプレイの中でステップを踏んでいると、ガラス越しに見える人達は通り過ぎる人もいれば、わざわざ足を止めてオレが踊り終えるまで眺めてくれる人もいる。時々、同じように踊って楽しんでくれる小さな子供や、目尻を下げて嬉しそうに見上げてくれる老人、朝の通勤ラッシュで足を止めて見入る人、昼は休憩がてら昼食のパンを手に、オレを見てくれる人までいる。それがうれしくて、たのしいから、踊ることは大好きだ。一日中そうしていたって良いぐらい。
オレを作ってくれたジェイドとフロイドが言うには、一日中踊り続けるのは身体への負担が大きいので難しいと告げられた。オレは人間のようで居て、人間じゃない。踊っていたって筋肉がつくわけでも、身長が伸びるわけでもない。少し寂しいと思わなくはないけれど、自分のできる範囲で人がオレの姿を見て楽しそうに手拍子をしてくれる様子を見るのは生きがいを確かに感じられた。それにこの店で作られたことは誇りに思っている、今のままで十分幸せだ。
でも少しだけ、引っかかることがあった。
毎朝、同じ時間に店の前で足を止めるあの人。長い黒髪が綺麗で、いつも卸したてのスーツを着ていて、タンブラーを片手にこちらを眺めている人。いつも難しそうな顔をしている。時々、睨んでいるようにも感じるその視線を浴びながら、たまにステップを踏み間違えてしまうことがあった。あの人の視線に気づくと、どうしても、心臓の歯車の鼓動が乱れて、足がもつれてしまうことがある。なんとか立て直して、音が止むまでは踊り続けるけれど、踊り終わってお辞儀をして頭を上げると、拍手をしてくれる人ごみの中でその人は静かにこちらを見つめるだけだった。笑った顔も、嬉しそうな顔も、一度も見たことがない。
(何が悪かったんだろう)
気に入らないことがあるんだと、思う。ミスが許せないのか、ディスプレイのデザインが嫌なのか。
それとも、ドールであるオレ自身のことが癇に障るのかー。
(ドールは人に好かれることが前提で作られてはない。オレのように意志を持つドールを中古品と呼び、好まない客層だっている。それでも、あの人をいつか、笑わせてみたい。だって、笑えない人生なんて、楽しくないじゃないか。そう思うのは、傲慢だけど、それでもー。)
―Ⅰ―
「カリムさん、今日もお疲れさまでした」
店主のアズールはディスプレイの扉を内側から開いた。扉が開かれて、カリムはヒール音を鳴らして、店内に戻る。ここはドール専門店、オクタヴィネル。店内には、契約を交わすためのカウンターとショーケースに並ぶドールのパーツしかない。シンプルな造りは、高級志向の客層しか想定していないからだと、昔アズールから聞かされたことがあった。
「ラッコちゃん、メンテの時間だよ~」
店奥にある応接室から出てきたフロイドから、なにやら甘い香りが漂う。すんと、鼻先を着ている白衣に寄せると、くすぐったそうにフロイドは笑った。
「あ~、ばれちゃった?お茶してたんだあ」
「今日はトレイさんから新作のケーキを試食として頂いたものですから・・・」
フロイドの後ろから、顔を覗かせたのは同じく甘い香りを漂わせている双子のジェイドだった。見た目のわりによく食べる(と、アズールは恨みがましく言うことがある)この双子のドール職人は、休憩の合間でカリムに内緒でよくお茶をしている。ほとんどが内緒にできていないのは、口の端についたクリームのせいだ。
オーナーが居らず、人と仮契約も交わしたことのないカリムは、声帯も体温も持たない。人間が食べるものは口にしたことがなく、唯一あるのはたまに淹れてくれる紅茶だけだ。臭覚や味覚、痛みは感じることができる。また二人だけで美味しそうなものを食べてたんだなあと少しだけ落ち込むような素振りを見せたカリムに、フロイドとジェイドは目尻を下げて笑った。
「カリムさんもそろそろ、食べられるようにはなりますよ」
その様子を見ていたアズールがにこりと笑う。真意が分からずに小首を傾げていると、閉店の札を掲げていたはずの扉の鈴がちりん、と鳴った。
「仮契約が近い、という意味ですよ。どうぞ、入ってください」
アズールが声を掛けると、秋先の少し冷たい外気の風と共に、入ってきた客。
(・・・・・・!)
カリムはその人物の姿に、大きな目を見開いた。
「ようこそ、オクタヴィネルへ」
「お待ちしておりました」
「相変わらずじゃ~ん」
「・・・・・・」
交わされる視線にカリムは戸惑った。アズール、ジェイド、フロイド、それから、入ってきたばかりの客。その人は相変わらず笑ってはいなくて、後ろ手にドアノブを閉めると着ていたロングコートを脱いだ。少し寒くなる前によく見かけていたスーツ姿だった。
(あ・・・・・・)
じろじろと眺めているのがよくなかったのか。彼はカリムを横目で見るとすぐに視線をアズールの方へ戻した。とてもじゃないが、自分自身に好感を持っている客とは思えない。ここには素晴らしいドールもそのパーツもたくさんある。現在起動しているのはカリムだけだが、彼の目的は他にあるみたいだ。3人の知り合いなのかもしれない。ビジネス仲間か、友達か・・・。
(邪魔しちゃ悪いよな)
カリムがその場から離れようと、店と家が繋がる渡り廊下の出口へ向かおうとしていると、背丈の高いジェイドとフロイドに行く手を阻まれた。
「?」
「な~に、ラッコちゃん、もう家に戻るの?」
「お客様ですよ、カリムさんに」
(オレに?)
疑問に思い振り返ると、アズールと彼がこちらを見ていた。
「あまり怖い顔なさらないでください。カリムさんが警戒してしまいます」
「そんな顔をしているつもりはない」
「ウミヘビくん、ウケる」
「ふふっ」
(ウミヘビくん?)
どうやら彼の名前らしい。フロイドはジェイドとアズール以外のモノや人に対して、海の生き物に擬えた名前で呼ぶことがある。特に親しい相手だと尚更だ。彼は、フロイドの友人なのかもしれない。ひとつまとめにされた長い黒髪は、艶めきがあって美しい。それに表情だって物静かで、頬の輪郭が細くて。
「ッ!」
「おっと」
じっと見ていて気付かなかった。いつの間にか距離が詰まり、伸ばされた彼の指が、頬に触れそうになって思わず後退る。カリムは、後ろにいるフロイドに支えられるような形で足元が躓いた。
「ウミヘビくんって案外手早いよね」
「誤解のある言い方をするな」
頭上で交わされるやりとりに、カリムはきょろきょろと視線が彷徨う。彼はもう一度手を伸ばしカリムの首元で触れかけようとした指を止めた。
「・・・綺麗だな」
ぽつりと呟かれた声に心臓の歯車が軋む。はっと息を飲むと、漆黒の瞳が真っすぐに見つめていた。・・・と、思ったのもつかの間、視線が下がる。
そうだ、この服のことだ。これは、ジェイドとフロイドが知り合いの有名なデザイナーにオーダーメイドで作らせたものだった。たしかブランド名は『フェアリー・ガラ』。店で初めてのドールだから、とアズールが張り切って仕立ててくれた。ヒールが高めの靴にも拘りがあって、これはジェイドとフロイドが丹精込めて作り上げてくれた。この世でたったひとつしかない大切な服飾だ。もっと見てほしい!と、足底を少し浮かせて見せる。髪飾りやピアス、手首のアクセサリーに、きめの細かい装飾、見てほしいところはたくさんある。笑みを浮かべて、身振り手振りしていると、彼はまた眉間に皺を寄せた。
「そういう意味じゃない・・・と、言っても分からないだろうな」
彼は手を下げて、ため息を吐く。人間が考え、感じることは、この店で生活していくうちに、人のことは分かってきたつもりでいたが、所詮外部の誰とも契約していない自分には計り知り得ないことがたくさんある。人になれば理解できたのかもしれない。ドールである自身の環境については何の不満もないはずなのに寂しいと感じるのはきっと、贅沢な話なのだ。
「さ、ジャミルさん。こちらが仮契約証になります。今からお話しする条件は、カリムさんもきちんと聞いておいてくださいね。ジェイド、お茶と・・・それから、まだケーキは余っていますか?」
「ええ、お二人分あります。ダージリンを淹れてきましょう。ケーキに良く合いますよ」
「よかったねえ、ラッコちゃん。ケーキ食べられるってよ?」。
「・・・おい、そろそろ離れろ」
後ろから抱きしめてきたフロイドが頭上に顎を乗せくるので、見上げてみると、にやりと笑う瞳と目が合う。黒髪の彼は、面白くなさそうな顔でカリムとフロイドを見やる。また、何か気に食わないことがあったみたいだ。不機嫌そうな顔を隠すつもりもない彼は、アズールに案内されて歩を進める。
(ケーキが食べられる?皆と一緒に?この人は誰と仮契約するんだ?)
フロイドに後ろから肩を押されて促された行先は応接室だ。えっ、と驚いて先を行くアズールと彼を見る。察してくれたのか、アズールは契約証をひらりと翳した。
「ジャミルさんは貴方と仮契約に来たんですよ、カリムさん」
『カリム・リーチの仮契約同意証明書』
証明書に光る銀色の文字が、俄には信じられないでいた。この名は、ジェイドとフロイドから貰ったものだ。『カリム』とは、2人が大切に想っている友人の名前から由来する。譲渡することを前提に作られておらず、店を開く際の一体目のサンプルドールとして作られたはずなのに、契約書がこうして存在していたことには驚いた。アズール、ジェイド、フロイド、それから・・・
「ジャミルさん、こちらにサインを」
ジャミル、と呼ばれた彼はアズールに差し出された万年筆を手にすら、とサインを記した。店に来たときから、アズール達と交わされる小さなやり取りから彼らの知り合い、否、もしかしたら親友なのかもしれない。そんな親しい雰囲気は感じていた。オレの知らない、親友たち。フロイドとジェイドとアズールは、家族のようなものだ。親友と呼ぶには少し違う。
(オレには親友と呼べる人なんて…)
少しだけ心臓部分がちくりと傷んだ。
「はい、どうぞ。カリムさん」
応接室のソファーに座っていると、部屋に入ってきたジェイドが、召し上がってください、と苺の乗ったショートケーキを運んできた。目の前に置かれて、思わず口が緩んでしまう。これが、ジェイドとフロイドがよく食べているケーキだ。ジャミル、と呼ばれた彼がサインをしてくれたおかげだ。人と仮契約を交わすと、人と同じものを摂取しても良い。そんなルールで作られたドールは少々不便な生き物かもしれないが、同じものを食べられる、というのは嬉しい。見様見真似のいただきます、という仕草をしてフォークを手に白いクリームに覆われたスポンジを上から掬おうとしていると、横から手首を掴まれた。
「!」
「・・・すまない」
ジャミル、と呼ばれたその人の手だった。咄嗟の行動のように見えたその手を、バツの悪そうな顔して、すぐに放す。これからオーナーになるかもしれない人。もっとよく知らないといけない。目の前のケーキにはしゃいでる場合じゃなかった、と、カリムは首を横に振った。
「・・・お前が謝る必要はない」
視線を外されたその先で、ジェイドとアズールが互いの顔を見合わせた後、こちらを見て苦笑した。
「心配性なんですね」
「過保護ですね」
「・・・うるさいな。それを食べたらすぐにここを出るぞ、カリム」
契約証の控えを渡されて、ジャミルは持っていたビジネス用の鞄に仕舞いこんだ。心配性、過保護の意味はよく分からなかったが、なるほど、少しせっかちな人なのかもしれないなと、慌ててケーキを頬張った。甘くておいしい。ほんのりと優しい甘さが口中に広がった。ジェイドの淹れてくれた紅茶もいつもより何倍も美味しく感じられる。
「それでは改めて、口頭でも説明しますよ」
アズールの声に耳を澄ませる。
「仮契約とは所謂お試し期間のための契約です。期間は明日から三日間。この間、カリムさんは食べ物の摂取を許可されます。まあ、今日は特別に古くからの友人として、免除させて頂きますので、具体的には食物の摂取は今日からで大丈夫です。本契約を交わすまでは、声帯と体温はカリムさんには追加されません。あくまで、仮契約。ジャミルさんはこの三日間は仮のオーナー、となります。三日間後の翌朝には必ずご来店ください。その際に問題がなければ本契約の証明証をお渡しします。ご来店までに答えを見つけ出してくださいね。貴方も、カリムさんも」
こくりと、頷いて見せる。所有者にもドールにも権利を与えてくれる証明証の本書をアズールは丁寧にファイリングすると席を立った。最後の一口のケーキを食べ、紅茶をこくんと、飲み込むと待っていたようにジャミルもコートを羽織り、鞄を手に持つ。右のポケットからは、革のキーケースが出てきた。エンブレムのついた鍵が揺れる。そうだ、急がなきゃと自分も席を立つと、ふ、と吐息が聞こえた。
「慌てなくてもいい」
背を追いかけるように歩くと、表情は見えないが優しい声が聞こえた。
***
ジャミルの運転する車に乗り、見えてきたのは雪のように白い壁で造られたコンパクトハウスだった。車庫に停めてくるからと、先に車から降ろされて、玄関先にある数段しかない階段を上る。玄関の扉まで真っ白で驚いた。ドアノブは黒。唯一の色だった。すべてが潔癖を思わせるそれに、ジャミルは白が好きなのか。白のどんなところが好きなのか、想像してみる。アズールの店やフロイド、ジェイド達と暮らしている店はいろんな色で溢れていた。例えば、深い海の底を思わせるような青や、澄んだ空を思わせる水色の壁紙に、リビングにはジェイドが好きで集めているという色とりどりのキノコのぬいぐるみやクッションが置かれていたりする。この家の中はどんな物で溢れているんだろうか。瞳を閉じて考えに耽っていると、後ろから階段を上がる靴音が聞こえた。
「カリム、寝てないか?」
ゆっくりと瞼を開けてくるりと振り返ると、ふらりと身体が横に揺れた。ジャミルが手を伸ばし、肩を抱くと開いたはずの瞳はまた閉じられた。
(アズールの奴・・・)
ジャミルに体重を預け、寝息でも聞こえてきそうなカリムを抱き上げる。通常は仮契約を交わしたその日からお試し期間という制約が始まるはずだ。だがカリム・リーチの三日間は翌日から。仮契約を交わし、すぐさまケーキを食したカリム。それから家の中に入るまで持たなかった眠気。仮契約を交わした直後に人の造る食物を口にしたドールはつまるところ、身体の動きを制限する仕組みに作ったのだろう。これを不良品と呼び返品するようにも仕向けたのか。発案者はジェイドか、フロイドか。店主は試す気だったのかもしれない。
(何が、古くからの友人だ)
今世でもいけ好かない奴らだと思いながら、ゼンマイの切れたオルゴールのように動かなくなったカリムを抱いたまま片手で寝室の扉を開いて、照明のスイッチを押す。部屋中にオレンジ色の灯が広がる。
1人で住むには広すぎるこの家の中には部屋が3つある。賃貸契約であるが、この地域の物件にしては築年数が経過しすぎていて思いのほか安く済んだ。年数が経過しているのだけが欠点で、内装は上等な造りをしている。住み心地は良い方だ。休日には、芝生だけ敷いてある広い庭でハンモックを出して書籍を読みふけり、飽きたら睡眠を貪ったりもするのが案外、悪くなかったりする。
早く見せてやりたい。ハンモックなんて、見たことないだろうに。ベッドにそっと寝かせると、ようやく、寝息に似た呼吸が聞こえてきた。頬と唇に指を滑らせると、何の凹凸もない滑らかな皮膚肌が呼吸音を響かせる。たしかに体温はないが、前世のカリムを表現するには十分な出来だった。
頬の輪郭をなぞり、唇を寄せる。薄いその口唇にそっと口づけた。はらり、と、長い黒髪がカリムの小さな喉仏を擽った。
「・・・おやすみ」
また、明日。
もうすこしがんばりましょう
場所は、賢者の島の中部に位置する。
RSAとの遠征試合の帰路の途中で、学生の間で美味いと噂のラーメン屋に立ち寄り、腹が膨れ満足したところで、隣にある場所が目に入る。
足を踏み入れると様々な音が入り混じる屋内で、ひときわギラギラと輝く機械。
近づくと、大量の人形やぬいぐるみがケースの中に入っていた。
「ジャミル先輩、クレーンゲーム初めてっすか?」
「あ、ウミヘビくんとラッコちゃんのあるよぉ~」
エースとフロイドに促されて覗き込んだ先には瓜二つというわけではないが、数十個の小ぶりのぬいぐるみがケース内に納まっていた。
装飾品や表情は小さいながらに誰かさんに非常によく似ている。
「これは…どうやるんだ?」
「ここにコイン入れて、ボタン押して、っと…」
エースがチープなボタンを押すと、ケース内のアームが縦と横に動いた。指を放すと、ぬいぐるみの山に突っ込んでいく。
何も掴まれないままアームは引き上げられてあっけなく元の位置に戻って来た。
「ってな感じですね~」
「ウミヘビくんもやってみたら?」
「いや、俺は…」
「あはは、下手そうだもんね。ウミヘビくん」
「…………」
「お、やる気出ました?」
フロイドの言葉に苛立ったわけではない、断じて。このアジーム家の次期当主の従者である俺がクレーンゲームひとつできないとあってはアジームの名に恥じるということだ。
すぐさま財布から100マドルのコインと取り出し、投入口に居れる。
こんなものは簡単だ。アームで引っ掻けて落とすだけだろう。
俺と誰かさんによく似たぬいぐるみをケース越しに眺めて、右を指差すマークが光る、チープなボタンを押す。
指を放すと、アームはさっきと同じく、ぬいぐるみの山に突っ込んだ。そして引き上げられた光景に3人して思わず目を見開く。
「「「あ」」」
銀色のアームは、ふたつのぬいぐるみを器用にも、一度で引き上げる。落とすこともなくアームに抱えられたぬいぐるみたちは筒状の出口へと向かい、
取り出し口に落とされた。
屈んで取って見ると、俺と、にっこりと笑う誰かさんによく似たふたつのぬいぐるみが折り重なっていた。
「すげ~ね!」
「ふたつ取りってなかなかないっスよ!」
「これは何が楽しいんだ?」
「それ、言っちゃいます?」
小さな紐部分を持つと、ぷらんと揺れるぬいぐるみ。
こんなものを取って喜ぶ年齢でもない。それにしても俺のこの、きりっとした眉と口角と表情のぬいぐるみに比べて、誰かさんはこちらの気が抜けてしまうような腑抜けた笑顔をしている。
「カリム先輩にあげたら喜びそうっすね~なんて」
-
***
『皆さんの頑張りはよ~く見ていましたよ!いや~、素晴らしかったです!お客さんも大盛況で!それでですね…』
つい先日学園内で行われたVDCは大反響で終えた。
残念ながら、俺とカリムの所属するチームは準優勝という結果に終わってしまったが、それでも忖度を気にせずにダンスや歌唱が許されたというだけあって、心の中にあった蟠りが少しずつ解けていく感覚はあった。
文化祭内での催しが想像以上に評判が良かったのか、大会に参加したメンバーを模したぬいぐるみやグッズの企画案が挙がっていると学園長に知らされたときは、思わずアジームの許可はと食い気味に詰めたが、むしろ旦那様は大歓迎、必要ならば出資まですると言ってのけたほどだ。
その企画に上がったぬいぐるみとやらが巷にあるゲームセンターとやらのクレーンゲームの中に並び、ヴィル先輩のファンを始めとした客層が挙ってゲームにハマっているらしい…とエースにマジカメのスクショを見せられ、試合終わりに寄る羽目になったのだ。
大方、主に女子で占められているファン層を狙って、少しの下心があったエースに都合よく連れて来られたとも言う。
掌に納まりの良いぬいぐるみ。寮に戻って来てから談話室でさてこいつらをどうしようかと思考しているとどこからともなくぱたぱたと走る音が聞こえ、それは背中にぴたりとくっ付いてきた。
「ジャミル!おかえりっ!」
「っ…!急に抱き着いてくるな!びっくりするだろ!」
「すまんすまん!」
なははっ!とひとしきり笑ったカリムは俺の手元にあるものを見つけてきょとんと小首を傾げる。
「おっ、なんだこれ?」
「これが学園長が言ってたグッズ、ってやつだよ」
「文化祭の?」
「そう。遠征帰りに立ち寄った」
「へえ~!オレとジャミルにそっくりだな!すげー、よくできてる!」
ぬいぐるみをカリムに渡してみると、きらきらと輝く瞳で見つめていた。
…ふと、エースの言葉を思い出す。
「そんなに欲しいならやるよ」
「へっ?」
…あ、しまった。
と思ったころにはもう遅く、自然と放った言葉にカリムはあんぐりと口を開けてこちらを見た。これが腑抜けた顔だ。
互いに17歳になる年だ。さすがにぬいぐるみをもらって喜ぶ年齢でもない。
「カリム、今のはー」
今のは間違い、気の迷いだと、訂正をするつもりがぬいぐるみごと掌をぎゅっと握られた。
「オレ、一生大事にするな!」
「え?あ、ああ。うん」
「ありがとう…すげえうれしい…」
昔話で聞かされた姫様のように、コソ泥が摘んできた花飾りひとつで喜ぶみたいに、たかがぬいぐるみのひとつやふたつに頬を寄せ、カリムは目尻を下げる。
「……」
「ん?なんだ?」
思わずその頬に手を当てると、カリムはこてんと顔を傾げる。
『カリム先輩ってラーメンを食ったこともなけりゃ、ゲーセンもカラオケも行ったことないでしょ?』
『俺らみたいに~、寄り道なんてしないんじゃない?』
「…お前の」
「?」
「食べたいものは俺が作るし、景品のぬいぐるみもくれてやるし、放っておけばお前は1人で呑気に歌ってるだろ?」
「ひゃみう、なんのはなひら」
「フッ」
両手でふにふにと両頬を弄ぶと、カリムは制止するように俺の手首を掴む。俺に甘やかされて蕩けたような柔らかい頬は案外触り心地が良い。俺にはそれを楽しむ権利が少しぐらいあってもいいだろうと思う。
「お前は外に行きたいと思うか?」
「ん?そと?」
ひとしきり頬の柔らかさを堪能したあとに、手を放してやるとカリムは夕陽の差し込む窓の方向へ顔を向ける。
「明日も天気良さそうだもんな!あ、そうだ!明日は弁当を持ってみんなでピクニックでもするか!?」
明日は休日だし!と、にこにことした顔が夕陽に照らされる。
「90点だな」
「へっ」
「質問に対する答えだ。まあ、上出来だ」
「?」
「でも弁当ってなんだよ。誰が作ると思ってるんだ」
「いでっ!」
形の良い額を人差し指で弾いてやると、カリムは大げさな声を出す。俺が弁当を用意するだろうと期待した眼差しは、夕陽を浴びてきらきらと光り輝く。
それを見ていると、悪い気はあまりしなくなってきた。
***
『オレとジャミルにそっくり!#VDCのグッズ!#ぬいぐるみ#よくできてるぜ!』
更衣室で制服に着替えながら、新着投稿を知らせる音に誘われてマジカメアプリを起動する。
軽音部のアカウントはカリムと昨日渡したばかりの二匹のぬいぐるみの写真を載せていた。軽音部のメンバーが、ウインクをするカリムの両頬にぴたりとぬいぐるみを寄せている。正直、名門校に通う男子高校生とは思えぬ雰囲気が、この部内には漂っている。
「……99点だな」
「あ!昨日のじゃないスか?やっぱカリム先輩にあげたんすね」
「……後ろから覗き込むなんて感心しないぞ」
先ほどまで1年生用の練習メニューをこなしていたはずの後輩に振り返り、じとりと睨む。
「そう言わないでくださいって!あ、お詫びにカップラーメン食います?」
「…?」
ちょうどできたところなんですよ~と、エースは箸と手に何か持っていた。よく見ると、他の部員たちも同じようなものを手にしている。
発泡スチロールにロゴの入った容器の蓋を外すと、湯気と共に匂いが立ち込めた。
中身を見せられて、確かに、麺に近い何かと、薬味に近い何かが入っている。
「なんだ?これ……」
「えっ?!知らないんすか?」
「湯切りはどうするんだ」
「…なんていうか、ええっと…ジャミル先輩も箱入り、っスよね…」
「は?」
「あ~、なんでもないっす。フロイド先輩にあげよ~っと」
Timeless(前編)
「ジャミル先輩、調子悪いんすか?」
投げたボールは、的を大きく外れ、床にバウンドして落ちた。時間切れ。ちょっとした練習試合は単純なミスで終わった。汗を拭いていると、後輩のエースはジャミルの横にすっと座り顔を覗き込む。いつも涼しい顔をしている先輩だと思っていたが、今日は妙に、表情が暗い。
珍しく、ミスも多い。パスまでは相変わらず上手いのに。
顔と体の向きとは真逆に繰り出すフェイクパスは、敵味方関係なく相変わらず圧倒された。だが、パスを受けて、ゴールまで目指す瞬間。これに関しては、その日の調子で変わることが多い。今日は先輩のダメな日だな、と返事のない横顔を見る。そして視線を上にあげると、黄色い歓声の中にいるはずの人の姿が見えなかった。
あれ、またか。失礼だといつも突っ込まれる言葉を、エースは容赦なく吐いた。
「まーた別れたんすか?」
「そうだよ」
ハッ、と乾いた笑いで返す。何回目だろうか、と、エースは思った。エースが入部してからというもの、この副キャプテンは女性関係の噂が絶えない。今日の黄色い声援の中には、一体何人の次の彼女が隠されているのかと、部員たちの中で暇つぶしという名の賭けにすらされていることは本人も知ってる。来るもの拒まず、去る者負わず、の性格のせいか。彼女のルーテインが早い。今回は。
「一カ月っすか?みじかっ」
「持ったほうだろう」
「ひえ~…。俺ならもっと大事にするし」
「言ってろ」
「で?敗因は?」
「…映画。」
「え、まさか。あれ見たんすか。復讐のやつ」
「ああ。途中までは面白かったぞ。男が身を挺して老人を守ってたところとか・・・」
「そんなの、よく女子と見に行きましたね・・・チョイスミスじゃないっすか」
デートで見に行くもんじゃないっすよ、と、後輩に諭され、ジャミルは罰の悪そうにタオルで首筋を拭った。
先週の土曜日だったか。翌日の昼には別れたいと一文のメールで関係が終わった。映画の前後も正直何を喋っていたか覚えていない。当たり障りのない、つまらない話だったのだろう。次のテストの話、教師、女友達の愚痴、家族の話。ノリが悪いというわけではない。ただ、興味のない人間と積極的に会話をする気になれないだけだ。
それを言うと、「じゃあ告白断ればいいじゃないっすか。ジャミル先輩ばっかりズルイっすよ」と、後輩に言われた。正直断るのも面倒になる時期もある。結局誠実じゃないだとかなんだとかで振られることが多い。受け身でいると別れる時に楽だと気づいた頃には来るもの拒まずの術を身に着けてしまった。
「別れたことより、映画の内容だ。途中までは面白かった、最後が、ダメだ。休日に見るもんじゃなかったな。」
「不調はそれが理由っすか?」
「それ以外にあるか?」
「わかんねーわー」
つかの間の休憩時間。次は成功させる。ジャミルは立ち上がった。
顔に汗が張り付いて気持ちが悪い。途中、替えの新しいタオルを更衣室のロッカーから出して、体育館外の水場へ向かう。屋内も外屋外もどこもかしこも暑苦しい。ジャミルのお気に入りの場所は校庭にある大きなケヤキの木の下だ。夏は風が密かに吹いていて、涼しい。水場も、ここだけ新しく作り直されている。蛇口を捻ると冷たい水が流れる。両手で受け止めて、ぱしゃりと顔を洗った。
ふ、と息をついて顔を上げ、もう一度と、視線を落とすと赤い筋が流れてきた。
「えっ?」
ぎょっとする。水に混じった赤。血だ。驚いて、片手で口元を抑える。何もついてない。どこから?怪我をしたのか?
きょろりと、見渡すと、水場の端から流れてきてたその正体が分かった。
「あ…」
白銀の毛髪に、紅い瞳。しゃらんと鳴り輝る、耳元の飾り。
一瞬だけその空間の時が止まったようだった。
見慣れない男子生徒は驚いた声を隠すように口元をシルクのハンカチで覆っている。微かに、血がついているのが見て取れた。男子生徒は、蛇口をきゅっと捻って水を止める。蛇口に伸ばされた細い腕や手首が、随分と頼りなく見えた。
「わ、悪い。びっくりさせちまった」
「…いや」
何をやってるんだ。
無理矢理に笑い顔を見せられて、ジャミルは問い詰める言葉を飲み込んだ。男子生徒は唇の端が切れているのか、薄い口唇に微かな赤が濡れて光って見えた。
「本当、ごめんな。」
「あっ、おい…」
口元を見るジャミルの視線に気づいたのか、再びハンカチでさっと隠すと男子生徒は背を向け走り去っていった。
創膏はいらないのかとか、クリームを塗らないと余計に唇が荒れてしまう、とか。
一瞬で咄嗟の出来事のように、いろいろなシーンが脳内に駆け巡った気がする。
「…なんだよ」
なぜか、手持無沙汰になってしまった手を引っ込めて、頭を掻く。ジャミルは眉間を寄せて暑い空を見上げた。
***
「ジャミル・バイパーくんを推薦ということで決定しました。」
ホワイトボードにある名前に、クラス内で承認の返事である拍手音が響き渡る。
教師に名前を呼ばれてその場で立つと、「頑張れよ」と、『生徒会長候補演説』と記された資料を手渡された。4年制であるこの学園では次年度で3年次に上がる直前のこの夏の時期に、2学年生の各クラスから生徒会長候補を選ぶ規則がある。
期待が半分、不安は少々。
成り行きで選ばれたものだが、きっと自分ならやれるだろう。ジャミルが資料を捲りながら席に着くと、終了の鐘が鳴った。
「さすがだな、ジャミルー!頑張れよ~」
「他人事だな…」
「そんなことねえって!」
「応援してるぜ~」
「バイパーくんなら本当に生徒会長になれるんじゃない?」
「はあ…」
帰り支度を始めるクラスメイトたちに次々と軽口を叩かれ、ため息を吐く。興味がないわけではない。ただ、これから原稿を作っていくのは少々難儀だなとは思う。今月は期末試験も他校との練習試合も控えているのだ。
「あっ!」
突然、女子生徒が声を上げる。それを合図にするかのように、数人の女子生徒が窓側に群がってきた。なんだ?と、ジャミルを始め、男子達も一緒になって覗く。
正門前に、1人の男が立っていた。かなりの長身で、真夏だというのに黒のスーツを着こなし、おまけに白の手袋まで着けている。男は行儀よく真っすぐと立ち、淑やかに両手重ねニコリとした笑みを浮かべていた。
「超レア!」
女子生徒が黄色い声を上げる。
「はあ?何が?」
男子生徒達は小首を傾げた。
「滅多に見られないんだよね~!かっこよくない?あの人」
「ていうか、あんな人が迎えに来てくれるってヤバくない?テンション上がるわ~」
「そうそう、目の保養!」
きゃっきゃと、ハートを飛ばしながら盛り上がる女子生徒に、「あっ、そう。」と冷めた返事を返すのは男子生徒達だ。呑気でいいよな、と、ジャミルも面白くなさそうな顔をする男子生徒に混ざって男を見る。
すると、男の元へ、一人の生徒が駆け寄っているのが見えて、思わず目を凝らした。
ふわりとした白銀の頭に、褐色の肌。細い手足首。かなり華奢な身体付きをした。
あれ、は。
「あれ、アジームじゃね?」
1人の男子生徒が呟く。
「あっちも超レアじゃん。今日は登校してたんだ?」
「あ、やっぱりアジームのお抱え運転手?執事?」
「いいなあ~あんな人が執事だなんて」
うっとりと男を見つめる女子生徒達。気を取られないように、ジャミルはアジームと呼ばれた男子生徒を凝視する。きらきらとした黄金のピアスを揺らして、男に笑いかけている。男は、自分より小柄なアジームの歩幅に合わせて、ゆっくりと車道側を歩いてみせる。正門を出た二人は角を曲がりやがて姿が見えなくなった。
注目の人物がいなくなったことで、窓側に張り付いていたギャラリーが散る。
「うおっ、なんだよ」
ジャミルは、その中の一人の男子生徒の腕を捕まえた。
「さっきの。アジームって、あのアジームか?」
「まあ、噂だけどなあ。アジームの御曹司がここに通ってるって。」
この国で『アジーム』を知らない者はほとんどいない。有名な大富豪の名だった。
進学名門校と言われる学園に通っているとしても不思議ではないが、ジャミルは入学してから、そもそも、あの男子生徒を間近で見たことがなかった。あの水場で見かけた、以外に。
「金持ちの特権ってやつ?ほとんど通ってないらしいぜ。幽霊生徒ってか。いいよなあ、それでもお咎めなしだもん」
「お抱えの運転手がいるぐらいなら、お抱えの家庭教師もいるんだろうし、困らないもんねえ」
「テスト前になったら登校してるらしいぜ、同じクラスの奴が言ってた」
「にしても、大富豪の御曹司ってわりに目立たねえよな。俺名前知らねえもん」
「名前、なんて言ったかなー」
うーんと、腕を組み悩む男子生徒に、むず痒い気持ちになる。
知ってる気がするのに、声に出せない。なぜ、自分でもそう思うのか、ジャミル自身も分からなかった。
「そう、たしか、名前は――」
***
呻く暇もなく、頬を打たれる。
カリムがその場に蹲ると、背中を足で蹴られた。
「ほんとつまんねえなあ」
「で、金は?」
髪の毛を掴まれて、顔を上げられる。その痛さに一瞬目を細めるが、カリムはすぐに口を開いた。
「昨日も言ったろ?オレは財布を持ち歩いていないんだ。」
にこりと笑って見せたことが癇に障ったらしい。男は拳を振り上げて再びカリムの頬を殴った。まだ塞がれていない傷口が開き、唇から血がごほりと出る。
手の甲で雑に拭うと、カリムは立ち上がって男を睨んだ。
「顔はやめてくれって言ったよな。とーちゃんに説明するのが大変なんだ」
「ナメた口聞いてんじゃねーよ、坊ちゃんが」
胸倉を掴まれて、掲げられた拳に目を瞑ると次は反対の頬を殴られカリムの身体はふらりと横に揺れた。倒れそうになったところでなんとか壁に手を着く。
その弱弱しく見える態度に満足したのか、男はカリムに向かって唾を吐くと去っていった。汚れたボトムの裾を手で軽く叩き、すう、と、ため息を吐く。
一度や二度ではない。学園でどんな立場に置かれているのかカリムは十分に理解をしていた。最近、2年次生になってから見えてきたのは、あからさまな、嫌がらせ。
ほとんどの授業に出ないのに、学園側から咎められない、大金持ちの一人息子。なら金の無心をしてやる、と。それを断ると、気に入らないのか殴られることが頻繁になってきた。進学校と言えどもこういう輩は昔から居た。誘拐や毒を盛らないだけ今世はマシなほうだと、思う。守らなければいけない兄弟だっていないので自分だけが耐えればいいだけのことだ。ただ耐えて、目立たないように、入学式で見かけたあいつに近づかないように、それでひっそりと生きていこうと思っていた。
学園に通うなら、実家の居場所を知られたくはない。目立つことはしたくないと主張した自分を、前世を知る父親は、快く承諾して自由を与えてくれた。執事を添えての生活を条件に用意されたマンションで暮らすことに、だいぶ慣れてきた方だと思う。
今日もきゅっ、と水場の蛇口を捻る。切れた唇と、頬の腫れを少しでも冷やそうと洗い流し、ポケットの中を探る。
「あ、あれ?」
いつも執事が準備してくれていてるはずのハンカチがない。部屋に忘れてきたのか?両方のポケットをごそっと探ってはみるものの出てこない。あとは、鞄。鍵を外して中を見る。やっぱりない。これも嫌がらせの一種か、自分の忘れ癖のせいなのか。俯いていると、足元にぽたぽたと水滴が地面に落ちる。地面には、蝉の抜け殻もあった。
今日も暑いな。まあ、いつか乾くだろうぼんやり思っていると。
「おい」
頭上で声がする。ぱっと顔を上げると、ノースリーブの赤いフードを着た男子生徒が、手にしていた白いタオルをすっとカリムに差し出してきた。
「えっ…?」
「ハンカチ、ないんだろう」
ぶっきらぼうに答えて、顔を逸らす。右側に垂らしている漆黒の前髪は表情を隠していた。受け取れ、と言わんばかりにタオルを押し付けられるが、カリムは躊躇する。
新品に近いタオルだ。使われた形跡がない。こんなに綺麗な白を汚してしまうのはさすがに悪い。洗ったばかりの口元の傷口からまた少し、たらりと血が流れる。鉄の味がする。思わず手の甲で拭っていると、はっと気づいた男子生徒は、眉間に皺を寄せてタオルをカリムの顔面に押し付けた。
「わ、っぷ!」
「手で擦るな!余計汚れるだろう!」
「ご、ごめ…」
「絆創膏、持ってないのか」
「うん…。でも放っておいたら瘡蓋になるからさ、大丈夫だ!」
タオルをずらし、にこりと笑って見せると、男子生徒はあからさまに嫌な顔を見せた。
「俺も今、絆創膏の持ち合わせがない。…とりあえずそれ、やるから。」
ふいと、顔を逸らされる。カリムは顔を振った。
「だめだ!そんなの、悪いよ。洗って、必ず返すから。…ありがとう、バイパー。」
タオルにタグに書かれてある文字を見つけて恐る恐る声に出すと、男子生徒はカリムに向き直った。
「…ジャミルで良い。」
どくん、と心臓の音が大きく聞こえたような気がした。カリムは目を見開いて、ぎゅっとタオルを握りしめた。
「その呼び方、あまり好きじゃないんだ。…お前、名前は?」
記憶の中の過去と重なる。学園を去る時に見たジャミルの表情は悔しそうで、やり切れさなさも感じた。あの時と似ている。
カリムは覚悟を決めて口を開いた。
「…オレは、カリム・アルアジーム。」
***
「ここも、間違ってる。この間教えたばかりですよ。」
「ごめん…」
はあ、と、机に突っ伏すカリムの横で、アズールは採点を終えた答案用紙をカリムに見せた。赤ペンで跳ねられた箇所の多いそれをみて、カリムはしゅんと、肩を落とす。アズールとの個人授業は週に4回、自宅で行われる。カリムの通う学園の教師として、また、アジームに雇われた家庭教師として仕事をこなすアズールとは過ごす時間が比較的多い。見合った報酬さえ払えば、カリムの良き話し相手にもなってくれるアズールは過去の姿とさほど変わらなかった。
コン、と、自室をノックする音が聞こえる。はあい、と間延びした返事をカリムが返すと、奥からティーセットを持った執事の姿が見えた。
「カリムさん、アズール。お茶が入りました。休憩にしましょうか」
「やった!」
「まだ今日のノルマは終わってませんが…まあ、いいでしょう」
にこりと笑うカリムに、執事のジェイドも微笑み返すと持ってきたプレートを置き、2人の前にカップを並べた。ポットから紅茶を注ぎ、カリムの飲むカップには砂糖をひとつ、ふたつ、みっつ、よっつ、いつつ。相変わらず、信じられない量を入れるものだと、アズールはうっ、と眉間に皺を寄せた。砂糖を入れ終え、安心したように紅茶を口にするカリムを見て、ジェイドはそういえばと伏し目がちに言葉を紡ぐ。
「ジャミルさんにお会いしました?」
ごくん、ごほっ、がほっ。
ジェイドの言葉に驚いたカリムは咽る咳を落ち着かせるために、なんとかゆっくりと呼吸を繰り返す。大きく息を吐いたあと涙目でジェイドを見上げた。
なんで、どうして。そう訴える瞳に、ジェイドはおや、と首を傾げる。
「しっかりと、お名前が記載されておりましたので…。」
「あ、あれは!自分で洗おうと思って置いてたのに!」
「きちんと洗って、しまってありますから。確認しておいてくださいね」
「う、うん…ありがとう、ジェイド…」
洗濯籠の付近に折りたたんで置いてあったはずのそれは、執事兼世話係の彼の手に渡ってしまっていたらしい。顔を真っ赤にして慌てふためいたあと、しゅんと肩を落とすカリムの様子を眺めて、アズールは砂糖の入っていない紅茶を口にする。
「オレ、ジャミルに近づくつもりなんて全然なかったんだけど…あいつ、優しいから…タオルを貸してくれて、それで…。」
「優しい?先日、女生徒が振られたと嘆いていましたが。」
アズールは優秀な教師だ。カリムは学園の様子のほとんどは、アズールの口から教えられることが多かった。
この世界で生きるジャミルは、どうやら、成績優秀で人望があり、クラス、いや、学園中の人気の的となっている。バスケ部に所属していて、運動神経も抜群。2年に上がってすぐに副キャプテンになったらしい。文武両道、容姿端麗と来れば、当然、女生徒に言い寄られることも多い。彼女の噂は常にたえないらしい。先日まで付き合っていたのはアズールの担当するクラスにいる女生徒だった。これで、聞いた噂の数は指折り数えると10人を超えた。
「優しければ、そう簡単に恋人を手放さないでしょうに。」
アズールはティーカップを置き、答案用紙の採点に戻る。たしかに言うとおり、ジャミルは一人の女子生徒と長くは続かないタイプだった。最長は1か月、2カ月程度。アズール曰く、別れるほとんどの理由がジャミルから女性を振るというもので、最初、聞いた時は驚いた。
ジャミルは異性に対して一途なタイプだと勝手に思い込んでいた節があった。何事も妥協を許さない、ハマったらとことん突き詰めていく。料理も、従者としての訓練もも手を抜いたことがない。勉強だってそうだ。前世で学園に居た頃、カリムに遠慮して発揮できなかった分、いまでは隠すこともなく常に成績優秀者として名を連ねている。こんなジャミルだからこそ、好きになった相手には、完璧に、一途に想ったりしてくれるんだろうと想像して胸の奥がちくりと傷んだ夜もあった。簡単に女性を振るなんて姿はあまり想像がつかない。自分が女性だったらと思うと、くん、と喉の奥が締め付けられたような感覚になりそうだ。
『大嫌い』だと言われたときと同じように、振ったりしているんだろうか。
だめだ、と頭を振る。いまの世界に、ジャミルの側に自分がいることを想像してはだめだ。ジャミルはアジームもバイパーも、何の足枷もなく、自由に生きるべきだなのだから。あの時だってそう思って手放したのに。
カリム・アルアジームは、苦労知らず、世間知らずの大金持ちのお坊ちゃん。生まれつき身体が弱く、執事と護衛なしでは生活ができない。学校にはほとんど通えていない。出会うことで利害が一致するようなメリットなんてない。
カリムは赤でバツ印を付けられている答案用紙に向き合った。
「迂闊だったよ、オレ。失敗ばかりだな。」
もう会わないようにしないと。
言うと、アズールは肘をついて、参考書を開いた。
「失敗は成功の元、と言いますけどね。お父様から多額の報酬をいただいておりますから、しっかり点数を取ってくださいね」
「おうっ!…って、いたっ…」
「カリムさん」
切れた唇の痛みに眉間を寄せると、ジェイドはカリムの顔を覗き込んだ。瘡蓋になるはずのそこからはまたぷっくりとした小さな血の玉ができていた。また傷が増えたな、と思いジェイドはため息を吐く。
「…目立ちたくないから手を出さないでくれという契約ですけど、あまり傷が増えてしまうとカリムさんのお父様に叱られてしまうのは雇われの身の僕ですよ?」
「ついでに、僕も監督不行き届きとして呼び出されるでしょうね」
「ははっ、すまん!卒業までの辛抱だからさ。顔はやめてくれって言ってんだけどなあ」
目尻と眉を下げて笑い顔を作る。幼馴染の人生を優先するために、かかる火の粉は自身で耐えると一度決めた主の決意は頑なだった。いっそ哀れにも映るその笑う瞳に、アズールとジェイドは前世の彼を思い出し顔を見合わせると同時にため息を吐いた。
―翌朝。
正門前に車が停められる。ジェイドはサイドギアを引くと、後部座席に座るカリムに紙袋を手渡した。身は洗い立ての真っ白なタオルだ。上質な柔軟剤を含ませたそれは、カリムの制服と同じく少し甘めの匂いが鼻を掠めた。
「ありがとう、ジェイド」
持ち手を握って礼を言うと、ジェイドはすっと目を細めた。
「…カリムさん。事を荒立てたくないから助けを求めない姿勢は素晴らしいですが、その美徳はいつか貴方の身を滅ぼすかもしれませんよ」
きゅっと唇を閉じて、紙袋を握る手に力を籠めてしまう。カリムはジェイドの表情を覗うように瞳で見上げた。
「ジェイド、怒ってる…のか?」
「そう見えるなら、そうかもしれません。いってらっしゃい、カリムさん。」
優秀な執事は、作り笑顔でカリムを送り出す。
正門をくぐり振り返る。いつもは手を振るはずが、ジェイドは姿勢良く立ち両手を前にそろえたまま微動だにしなかった。カリムは気まずさを感じ、目を伏せてとぼとぼと校内へ向かった。
朝の予鈴が鳴るまであと何分か腕時計で確認する。
「カリムくん?」
ジャミルの居る教室に向かう途中、後ろからかけられた声に振り返る。
金色のふわりとした髪が窓から差し込む風に揺れる。カリムはぱっと表情を変えた。
「ラギー!?」
「やっぱり、カリムくんだ。噂には聞いてたんスけどここに通ってるって」
「ラギーも、入学してたんだな!知らなかったぜ、久しぶりだなあ!」
「わっ、ちょっとっ、」
両手をぎゅっと握り、ぶんっと上下に振る。ミドルスクールが同じだったラギーと再会できるとは!と、カリムはうれしさに顔を綻ばせた。握られた手首を見て、ラギーは首を傾げる。
「ちょっと痩せた?」
「え?そうかなあ…飯はちゃんと食ってるぜ!ジェイドの飯は旨いぞ、よかったらラギーも今度うちに食いにこいよ!そうだ、レオナもジャックも呼んで、パーティーをしてもいいな!」」
「え、まじっスか!?ぜひ行かせてくださいっス!」
「じゃあ、―」
「邪魔だ」
いつにしようか、と、続けるつもりだった。
突然聞こえた声の主は、カリムを不機嫌に睨んでいた。教室の入り口で話し込んでいたせいだ。ラギーはげっと顔を顰めると、カリムと距離を取った。
「ごめん、ジャミルくん。俺は何もしてねえっスからね!それじゃあね、カリムくん」
「え?あ…うん、ラギー…。またな。」
「……」
両手をぱっと上げて見せて、ラギーはその場を去った。
声の主に振り向くと、むすっとしている。邪魔だって気づかなかった。早く謝らないと。それに、当初の目的もある。
「ご、ごめんな、ジャミル。これを返しに来たんだ。ありがとう!本当に助かった!」
両手で持ち手を握って、ジャミルの目の前に差し出してみると不機嫌そうな顔はそのままに片手で受け取られる。
「こんなに大層な袋に入れなくたっていい。袋は返すよ」
「えっ…あ、そ、そうか。ごめんな。邪魔だもんな」
タオルを取り出して、空の紙袋を突き返される。
ジャミルは目を合わせることなく、教室の中へと入る。
声を掛けようにも、何も良い言葉が浮かばない。空の紙袋を手に持って俯くと、カリムも自身のクラスの方向へと戻っていった。
ぴたりと歩みを止めて、振り返るが姿はもう見えない。