ネテモサメテモ。

同人置き場

花は摘まれた

ジャミル!」
 ころころとした鈴音のような声が、名を呼ぶ。ふわりとした銀白の長い髪を揺らし、声の主は可愛らしく笑う。走った勢いで膝辺りにきゅっと抱きつかれて、ジャミルは視線を合わせるために背を屈めた。
「走っては危ないですよ」
「えへへ、ごめんなさい!」
 にこりと笑う小さな女児に、ジャミルは自然と目元を緩める。生写しかと思うほど、女児の紅い瞳はよく似ていた。
「何をなさっていたんです?」
「おえかき!きて!」
 部屋の奥からジャミルを見つけて走ってきたらしい女児は、自分よりも随分と大きな手をくいっと掴み、その部屋へとジャミルを引っ張り歩く。前屈みになりながらも進んだ先のチャイルドルームには、取り寄せたばかりの真新しい絵具と真っ白な画用紙が、ローテーブルの上に置かれていた。覗くと、緑に、赤に、青。描いている途中であろう花だろうか。女児らしい発想の景色の描写か。見て!と、誇らしげに掲げられたそれをまじまじと見つめる。
「お上手ですね。それは、お花の絵ですか?」
「うん!このあいだ、とうさまとみずやりしたの!てんきがよくって、みずがきらきらしてた!とうさまのまほうってすごいわ。アーティカも、あんなまほうをつかってみたい!」
「…できますよ、きっと」
父様の幼少期にそっくりの貴女なら。
「そうかな?つかえるといいなあ。そしたら、とうさまのみずやりのおてつだいができるかしら?ねえ、ジャミルもまほうがつかえるんでしょ?どんなまほうなの?きらきらしてるの?」
 見上げてくる小さな紅い瞳に、ジャミルは困ったように眉を下げた。
「…きらきらは、してませんよ」
「そうなの?じゃあかっこいいまほうかな?ジャミルはかっこいいから!」
「…はあ。アーティカ様は褒め上手ですね。将来が心配だ」
「ええっ!どうしてえっ!」
「どうか、お父様には似ませんように」
「わっ!」
 小さな頭に触れるだけのキスを落とす。
「私は仕事がありますから、失礼します」
「…おしごとおわったらあそんでくれる?」
「もちろん」
「やったあ〜!」
 にこりと微笑みかけると、アーティカは花が咲き誇るように笑った。小さく手を振り、厳重な護身魔法をかけて部屋を出る。
 扉を静かに締めていると、銀のプレートに菓子を載せた男が向かってきた。小刻みに持ち手が震えている。なんて稚拙でわかりやすい、と、ジャミルは冷たく目を細めた。
「それは?」
「ア、アーティカ様に…」
「下がれ」
 男を両眼で真っ直ぐ睨む。自身の視線が屋敷内で時折、蛇身の眼のようだと揶揄されている事実は知っている。男は呆然として足が後ずさる。
「今すぐ菓子を皿ごと廃棄しろ。お前を含め、それを用意した者を全員謀反者として旦那様に報告してこい」
「かしこまりました」
「さっさと行け」
「はい、ジャミル様」
 虚な目の従順な男は、踵を返して歩き去った。ジャミルは小さくため息を吐く。
「きらきらした魔法、か…」


***


 コン、と一度だけ鳴った音に、カリムは目を通していた書類の束から顔を上げた。開いた扉の先から入ってきた人物に、ぱっと笑みを浮かべる。
ジャミル!」
「…そっくりだな」
「?」
「いや、なんでもない」
 小首を傾げるカリムから視線を逸らし、机上に積まれた資料の束を眺める。書籍には過剰な付箋の数と、カリムが筆を走らせている先は真新しいノートだ。覗き込むと、学生の頃より多少はマシになった程度のまとめ方だった。相変わらず座学は苦手らしいこの書斎の主は、もうすぐ5歳の誕生日を迎える子供がいる。

「いつ戻ってきたんだ?」
「ついさっきだよ。旦那様はもう少し遅くなると言っていた」
 ジャミル上着を脱ぐと、書斎奥のクローゼットにそれを掛ける。これから側近の仕事を覚えていくのに必要だからと、カリムの父の側近たちに付いて、貿易会社の重鎮との会合に参加していたジャミルは気が抜けたように上質な素材のソファーに腰掛けた。
主人の部屋でこうも寛ぐような形で座る従者は自分ぐらいだろうとも思うが、それをにこにこと能天気に眺めながら許す主人にも問題はあるな、と視線を合わせる。
「お疲れ様、ジャミル!」
 学園を卒業して9年近くが経とうとしている。
 次期当主としての正式な任命まであと1年。様々な仕事の原理を叩き込まれているカリムはその月日の中で妻を娶り、子を成した。にも関わらず、ジャミルが目にするカリムはあどけなく時折少年のような表情すら浮かべる。

 ジャミルは立ち上がり、椅子に腰掛けているカリムの顎をくいっと持ち上げた。
「お?」
「威厳がないよなあ…」
「オレはジャミルみたいに格好良くないからなあ」
 あのいつもの軽い笑い声を添えて、そういえば、と続ける。
ジャミル宛のご紹介がたくさん来てたぞ?そろそろ結婚しないのか?」
「お前と、お前たち家族の世話で精一杯だよ。考えられない」
「オレのことは気にしなくて大丈夫だぞ!」
 こいつわかってないなと、ジャミルはじっと目を細める。
「お前なら引く手数多だ。それに、子供はいいぞ。あの子のためなら頑張れるって思うんだ」
 高貴で純粋の名を与えられた、カリムと同じ瞳を持つ存在。
 彼女はこれから先、カリムの愛情を受けて美しく成長することだろう。どうかアジームの毒には侵されないようにと、願うだけでは生温く、植物を枯らす毒薬は少しでも早く摘み、捨てていくべきだ。

「お前は本当に、俺の地雷を踏み抜くのが上手い」
 薄く艶めく唇を指でなぞる。カリムが顔を傾けたのを合図に唇を寄せる。

「俺にこんな気持ちを味わせておいて、どの口が言ってるんだ」
 カリムの預かり知らぬところでも散々、苛めてやったつもりだが、その身体に味を占めたのは間違いなく。
ジャミル…」
 惚けた顔に、威厳なんてない。
 そこにあるのはただのカリムという男だ。幼馴染みでもなく、親友でもなく、きっと主人でもない。
 ちらりと机上の書類の束を見つめてカリムの首筋に手を添える。
「あとで手伝ってやるから」
「…学生のころの課題じゃないんだぞ?」
「今まで俺が手伝って終わらなかったことがあるか?」
「ぐっ…ない、けど…勝手なやつ…。」
「なんとでも言え」
 口を開いて舌を出す。カリムは迫ってきたそれを迎え入れるように、目を閉じた。


 黒のレザーソファーで吐息をたてるカリムの頬を撫でる。事情の跡が残る香りごと包むように両手で、頬を覆った。解けた黒髪が、カリムの顔を隠すように重力に従ってぱさりと落ちる。
「ん…」
「…起こしたか」
「ふふっ、…大丈夫だ。くすぐったくて、気持ちいい。」
 砂糖菓子のように、笑う。笑って、黒髪を指先に絡め、弄ぶ。それはなんとも嬉しそうに。
 カリムの妻も、黒髪の綺麗な人だった。人を見る目だけは確かだと自負していた通りに、聡明で純粋で、穏やかで柔らかい、その女性を伴侶として選んだ。数ある"ご紹介"の中から選ばれたその人はやがてアーティカを身篭る。男児じゃないのかと、下世話な噂は当然耳に入っていたはずだ。だが彼女もカリムも持ち前の明るさで気丈に振る舞っていた。アジームの男達は夜伽以外に伴侶と同じ宅で過ごすことはないが、カリムは、時折体調を崩す彼女を気にしてか出来る限り同じ邸宅、同じ空間で過ごすことを選んだ。アーティカが産まれ、2人目はまだかと急かす黒い人影。そんなものは断ち切ってやればいいだけの話だ。それが自分に課せられた役割だと思っていた。カリムは次期当主として、ジャミルは次期側近として、慌しくも充実した毎日を送っていた。
 そんな中、彼女が倒れてしまった、と、カリムは涙ながらに崩れ落ちた。
 微量の毒が盛られ続けていた、オレはまた何も気付けなかった、助けてやることができなかった。
 言葉を懸命に紡ぎながら、縋るように泣き続ける背中を抱き留める。
 彼女は一命を取り留めたが、瞳は空を見つめ、言葉は発さず、ついに寝床から起き上がることはできなくなった。後遺症らしい。あの鈴の音が転がるような声は聞けなくなった。カリムの人生は本人の望むささやかな幸せと意志に反して、呪われたように黒い坂道を降っていく。踏み止まる両足には呪いが巻きつく。倒れそうになる身体を抱き、支えてきたのはアジームの人間ではない。ただのカリムになったその身体に必要なことを教え込んできたのも。

 髪を弄ぶ指を掴む。体温が少し下がってきたように感じる。
「寒いか?」
「そりゃあ、何も着てないからな…わっ」
 ソファーと床に乱雑に脱ぎ散らかした衣類を手に取り、カリムの頭に被せる。
ジャミルは衣類の山から自身の衣服を手に取り身につけていった。
「シャワーの準備をしてくる。一歩も部屋から出るなよ?」
 事情の後のカリムは、どうも目に毒だ。起き上がってきた身体にはいくつもの赤い紅が散っているように見えた。
「おう!」
 そして、色気のない返事。

 ジャミルはやれやれと、ため息を吐くばかりだった。